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人間は一方的被害者でも一方的加害者でもない存在
子ども時代、虐待の被害者だったからといって、私は38年間、一方的被害者だったかといえば違うのです。
自分の被害体験からできた心の傷から、無関係な人間への加害もたくさんしてきてしまった。誰かに暴力を振るったとかではなくても、何かの迷惑という小さなものであっても私自身の加害はたくさんありました。
虐待された人が虐待する親になる(虐待の連鎖が必ず起きる)と勘違いされると大変困るのですが、被害-加害って、自分の人生の中でも、他人との繋がりや社会の流れの中でも、オセロの駒のように白(被害)、黒(加害)と入れ替わるのです。それは、小さい被害-加害から大きなものまで色々あるし、人によって大小も性質も異なります。
だけど、私は38年も生きてきて、人間の人生の半生を生きてきて、すでに、一方的被害者側の立場では語れないものがあります。被害者側の立場だけで発信しようとすると、何だかすみません・・というような、隠し事をしているような後ろめたい感覚になったりします。
虐待といえばどうしても被害者の要素が非常に強いわけですが(当然、子どもは一方的被害者です)、自分の被害ばかりの話をしていては、虐待する親などの加害者(元被害者)への支援や、被害から抜け出せた人たち(被害体験から心の傷が深く、他者への加害性を持ってしまっている人)の支援は軽視されてしまうことにもなります。
結局、大人になり、虐待サバイバーだからといって、自分の被害しか言わない人は、そのことが自分自身を苦しめることにもなっていると思うのです。そこに虐待被害のトラウマを乗り越えるヒントが隠されていると私は思います。
自分の中にも加害者要素があって、それを認めたとき、自分の人間としての成長があり、初めて周囲の人や社会が自分を認めてくれる。社会との接点がそこにできるわけです。
長く大人になって生きてきた自分を振り返ると、人間は一方的被害者でも一方的加害者でもないと気がつくのです。
私は、自分の中の加害者性を認めたとき、自分自身が救われたように思います。自分は一方的に被害者だ!親が悪いから今の自分が最悪なんだ!社会が悪いのだ!と他人のせいばかりにしているうちは、自分が苦しいだけなのです。
当然、そんな自分では、他人も応援してくれません。
自分もどこか加害者性があり、他者や社会の中で折り合いをつけながら生きていかないといけないとわかったとき、社会の中に自分の居場所が初めてできたのです。
自分だけでなく他人も同じように何かしら苦しみを抱えて生きていることに気がつくこと。それが、自分の苦しみを一方的に他人にぶつけなくなること、他人の苦しみも想像できるようになることなのです。そんな自分になることが、自分の居場所ができることだと思います。
虐待の後遺症については、以下の書籍に詳しく描いています。精神科医の和田秀樹氏の監修・対談付き。
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