「火垂るの墓」の主人公の清太の死は「自己責任」か?
高畑勲監督の「火垂るの墓」というアニメーション映画は、日本人なら1度は観たことがあるだろうというくらい有名な作品だ。太平洋戦争末期に、神戸に母と清太(14歳)の妹の節子(4歳)が暮らしていた。しかし、1945年(昭和20年)6月5日の神戸大空襲により自宅を失い、その際に母が空襲から逃げ遅れて焼け死に、14歳の清太と、まだ4歳の節子の2人の兄妹だけで戦時中を生き抜こうとした物語である。ちなみに、父親は海軍で、戦争に出征しているため、母子のみが神戸に暮らしている中、空襲に遭っている場面から物語が始まる。
時代背景とともに映画の見方が変わる
私がこの映画を始めて観たのは、小学生の頃だったと記憶しています。毎年、終戦日が近い夏になれば、定番の戦争反対映画として、私も含め、多くの人が涙する映画でした。子ども2人が戦争孤児として残され、自宅が空襲で焼け出されたため、親戚の家で生活をさせてもらうことになります。そこで、お世話になった親戚の叔母さんからは、意地悪な発言や態度で虐められ、清太は節子を連れて、親戚の叔母さんの家を出て野外の洞窟で暮らすという選択に迫られます。
しかし、親戚の叔母さんの家に居なければ、配給も得られず、貯金も底をつき、結果、節子が先に餓死してしまします。その後、清太も三ノ宮駅構内で栄養失調のため衰弱死してしまいます。平成の前半までは、この映画を観て、子ども2人が一方的被害者であり、可哀想だと涙したという感想を持つ方が多かった印象がありますし、清太に意地悪をした親戚の叔母さんは、悪者扱いされていました。
しかし、最近、「火垂るの墓」の主人公の清太は自己責任だ!という感想をもつ方が増えているように思います。YoutubeやTwitterを見ても、主人公を批判する声をよく目にします。おそらく、平成初期の日本がまだ豊かだった時代にこの映画を観た感想と、今のように貧しい時代になった状態で観るのとでは、同じ映画を観ても、時代背景とともに人々の感想は変わるのだと思います。
戦時中と同じとは言いませんが、同じような貧しい時代になった昨今に、「火垂るの墓」を観れば、主人公の「頼りなさ」がよく見えるようになるからです。
清太(14歳)に自己責任論が浴びせられる理由
映画をよく観ていると、主人公の清太が親戚の叔母さんの家にお世話になっている間の言動に、「親戚の叔母さんが怒るのは当然」という意見が集まっても仕方がないと思われる場面が散見されます。
例えば、母親が空襲で焼け死んだ後、節子と清田が親戚の叔母さんの家にお世話になりだした頃、よくよく観ると、叔母さんは清太にも節子にも、意地悪はしていないのです。むしろ、親切にしています。病院でまだ清太の母親が生きてると思っている叔母さんは、「せっちゃん連れて、お母さんのお見舞いに行こうと思ってるんや」と言っています。それ以外でも、キツく清太や節子に当たる場面が見られないのです。清太の母親が死んだと知った時も「あかんかったんか!?」と非常にショックを受けているのです。人として当たり前の心ある反応を示しています。
また、叔母さんの意地悪なように見える行動にも、よく考えると、実際はそうでないものもあります。例えば、叔母さんは、節子が「お母ちゃんのおべべ!」と泣いて嫌がるのを払いのけて、清太の母親の着物をお米に代えてきます。叔母さんの意地悪なように見えて、当時の生活では、生き延びるために致し方がない当然の行動だったと思われます。本来は清太がやるべきことを、清太の代わりに、親戚の叔母さんは、着物をお米(食糧)に代えるという「やりくり」を代わりにしてくれているのです。そして、そのお米のすべてを奪ってはおらず、清太に大きな瓶に入れてちゃんとお米を渡しています。
また、親戚の叔母さんは、最初の頃は、清太にも節子にも意地悪な言動はなく、節子がご飯を「おかわりー!」と言って茶碗を叔母さんに差し出したら、優しく「はいはい」と言って、おかわりをちゃんと食べさせてあげています。
しかし、次第に、親戚の叔母さんの清太への態度や言動は、意地悪で激しくキツイものになっていきます。平成初期の豊な日本の時代では、子どもにここまで意地悪な暴言を吐いて、と親戚の叔母さんが悪者扱いされていた感想が多かった(少なくとも、私の周りの人は、子ども2人が可哀想と涙していた)ですが、昨今のこの映画の感想では、清太の以下のような行動が批判されています。
【批判される行動①】 ゴロゴロして漫画を読み、家事の手伝い1つしない
【批判される行動②】 呑気にオルガンを弾いて遊んで迷惑をかける
【批判される行動③】 洗い物すらしないで迷惑をかける
【批判される行動④】 叔母さんが何度、怒りながらでもアドバイスを清太にしても、清太はお世話になっている親戚の叔母さんに一言も謝らず、頭を下げない。
例えば、親戚の叔母さんは、「14歳にもなって大きいんだから、助け合い、というものを考えてもらわな!」と清太に言います。言い方はキツイかもしれないけれど、当然の意見をアドバイスとして清太に言っているわけで、14歳にもなっていたら、子どもとはいえ、「家事でも、何でも、自分にできることやったら、手伝います!」と、通常なら頭下げて、お世話になっていることに対して、何かお返しして自分たちが居やすくするようにすると思います。でも、清太は、一度も頭を下げないし、怒られても謝らないし、親戚のお姉さんが節子に新しい下駄を買ってくれても、お礼すら言わないのです。
要するに、清太はお金持ちのおぼっちゃん
洗い物すらしないで放置するところをみると、清太はお金持ちのいい家の子どもで、お手伝いすらまともにしたことがないようなおぼっちゃんだったと見えます。お手伝いをせずに、親に怒られたこともおそらくないから、叔母さんを怒らせるということが、想像もできない。自分で考えて親戚の家の何か役に立つような行動に移そうとせず、ゴロゴロと寝そべって漫画を読んでいる。
親戚の叔母さんは、「14歳にもなって大きいんだから、助け合い、というものを考えてもらわな!」という当然のアドバイスを言われても、自分が悪いと思っていないから、謝ることを一切せず、節子と2人で自炊を始めてしまうくらい、ふてぶてしい態度にでます。叔母さんもそんな清太をみて「可愛げがない」とまで批判しています。結果、叔母さんとの関係は、もっと悪化して居づらくなっていきます。
結果的に、叔母さんの家を清太と節子は出ていき、2人で洞窟で暮らすようになります。叔母さんの家を出ていく時も、叔母さんは、清太と節子を「子ども2人で大丈夫やろうか?」と思っているような心配そうな顔で見送っています。親戚の叔母さんが清太たちを追い出したのではなく、清太から出ていったのです。
洞窟で2人で暮らしだした清太と節子だが、一度、物と食料を交換してもらった農家のおじさんにこう言われます。「今は、隣組(町内会のようなもの)に入っていないと配給がもらえない。よく謝って、あの家へ置いてもらいなさい」と。しかし、このおじさんの適格なアドバイスも清太は頑固に聞き入れません。
生き延びるチャンスは沢山あったのに、節子も清太も、餓死してしまいます。親戚の叔母さんの家で、「家事でも、何でも、自分にできることやったら、手伝います!」と役に立つような行動をしていれば、配給ももらえたし、節子も清太も餓死していないのです。戦時中で、親戚の叔母さんも自分たちの家族が生き延びるだけで精一杯の中、孤児2人が転がり込んできて、更に生活が苦しくなっているのだから、家事の手伝いでもして、お世話になっているお返しをしていれば、あれほど叔母さんからキツく当たられてはいなかったと思います。
清太の死は、本当に自己責任なのか?
上記のような清太へ「自己責任論」を浴びせる感想を最近、よくネット上で見かけますし、私も同感の意見をもつことが多いです。苦労なしのお金持ちのおぼちゃんだったから、生き延びれなかったのだろうなと私も思います。しかし、「現代人の感覚だけでこの映画を見てはいけない」というのが私の見解です。
清太だけでなく、日本中の大人までがこの当時、「軍国主義」の影響を色濃く受けていたと思われます。当時は非常に抑圧的な、社会生活の中でも最低最悪の『全体主義』が是とされた時代でした。清太は海軍で戦地に赴いている父が戦死する可能性を1ミリも考えていません。通常の14歳なら「父親が戦死して帰ってこないかもしれない」という最悪の事態を想定しそうですが、清太は父親が戦死する可能性を1ミリも考えず、結果、父親も戦死し、節子と2人、孤児になります。
「現代人の感覚だけでこの映画を見てはいけない」と書きましたが、清太は、軍国主義の影響で、「日本が絶対に勝つ!」と「洗脳」されてしまっていた状態だったという点が、この映画の戦争の見た目の怖さ(空襲や食糧難など)より、もっと怖い「見えない怖さ」だと私は思います。
もう1つ。清太が親戚の叔母さんの家にお世話になりながら、頭一人下げず、ふてぶてしい態度をとっていた理由の最もの原因は、父親が海軍のエリートであったということ。海軍のエリートの子というプライドが高く、「お国に尽くしているのは、自分の一家の方や。なんで叔母さんに偉そうに説教されなあかんのや!」くらいにさえ、思っていただろうと思われます。また、当時の日本の家は「家父長制」が強いですから、長男の男として大事にされてきた清太にとって、年上とはいえ女である叔母さんから偉そうに言われることは、屈辱的ですらあったでしょう。
一番、悪いのは戦争だと思う
清太に自己責任が全くゼロだったとは私も思えません。しかし、この映画は、表面だけで見えるものだけではないと私は思います。すでに書きましたが、空襲や食糧難という目に見えやすい悲劇だけでなく、清太が最も致命的な判断を間違え、節子と共に生き延びる道があったのに、兄妹どちらも餓死してしまった一番の原因は、軍国主義による国民への「洗脳」だと思います。私が個人的にこの映画を観て、一番、哀しい点は、この「洗脳」という点です。人って、ここまで「洗脳」できてしまうんだな、と。そして、その「洗脳」によって、生き延びるチャンスがあった人間が餓死してしまう悲劇が戦時中は沢山、起きていたという事実です。
人間は何度も判断ミスを犯すもの
清太は、親戚の叔母さんの家で変わるべきだったと思います。なぜなら、あの家に置いてもらうことが、清太も節子も生き延びる唯一の道だったからです。しかし、人間は生まれながらにして植え付けられた価値観をそう簡単には変えられるものではありません。軍国主義や家父長制といった清太が絶対的に正しいと思い込んでいる価値観を空襲に遭ってからわずか3ヵ月ほどの間に変えることは困難だったと思います。
そして、人間とは人生の中で何度も判断ミスをし、過ちを犯すものです。長く生きていれば、あの時はああすればよかった、こうすればよかったと、自分の判断したことに後悔することなど沢山あります。それでも我々が生きられているのは、助けてくれる人がいたり、現代の日本では社会保障制度(生活保護など)が整っているからです。それがない戦時中の清太のわずかな過ちを揚げ足をとって、死してなお、自己責任論をぶつけることは、私は間違っていると思います。ちなみに、現在の生活保護法が制定されたのは、清太が死んだ翌年の1946年(旧生活保護法)である。最低限の生活保障が日本国民であればすべての人に保障されている現代の我々は、セーフティネットという命綱がついた状態で人生を送っている。清太が生きた戦時中の14年間は、その命綱はなかったのである。
高畑勲監督は、「火垂るの墓」の感想は、時代とともに「自己責任論」が高まることを予想していた
高畑勲監督は、「兄妹が2人だけの閉じた家庭生活を築くことには成功するものの、周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものである」と述べています(Wikipedia「火垂るの墓」より)。また、高畑勲監督は、「我々現代人が心情的に清太に共感しやすいのは時代が逆転したせいなんです。いつかまた時代が再逆転したら、あの親戚の叔母さん以上に、清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします」と述べています(Wikipedia「火垂るの墓」より)。
高畑勲監督の予想どおり、平成初期の豊な時代(高畑勲監督曰く、時代が逆転し、日本が戦争や貧困とは無縁になった時代)の国民の「火垂るの墓」への感想は、心情的に清太に共感できる時代だったのです。しかし、時代が再逆転し、日本が貧しく戦時中と似たような苦しい時代となった今(高畑勲監督曰く、いつかまた時代が再逆転したら)、われわれの清太への感想は、「自己責任論」へと変化しているのです。
今、貧困者の多い日本で起きていることは、貧困者同士が助け合うのではなく、例えば、貧困でも働いてギリギリの賃金で生活している貧困者が、生活保護者をバッシングするなどといった国民同士の泥仕合ばかり起きています。自己責任論で個人を糾弾しバッシングし吊し上げるような意地悪な行為ばかりが目立つ気がします。映画「火垂るの墓」は、同じような時代に突入した今の時代こそ、この映画が真に伝えたかったメッセージを我々は、改めて考える必要がある作品だと私は思います。
追記①この映画、細かく描写を観ていくと、結構、精密に作られていると思います。「海軍さん」と叔母さんが呼んだように、清太一家へのやっかみは元々あったし、立場が逆転したからこそ、意地悪の反動も大きくなった。当時の国民の「格差」も今の時代の国民の心に通じていると思います。
「上級国民」なんて言葉はなかったです。例えば「上級国民」が交通事故で人を死なせてしまえば、「上級国民」だから〇〇なんだ、などと色んな憶測が飛び交う。時代の空気が本当に似ていると思います。
追記②本来は、同情されるべき被害者でありながら、何か汚点があれば、バッシングされる点は、虐待サバイバーに似ている面があります。だから、虐待の被害者は、穢れのない幼い子どもだけとされる世間の風潮があります。虐待の被害者であっても、思春期や大人になるにつれ、人間は誰しも何かしらの失敗をするし、被害体験から他人に意図的でないにしろ迷惑をかけてしまうこともある。虐待サバイバーなら、いつも間にか自身の心の傷から加害者になることも珍しくない。でも、本来、被害者であるのに、「汚点」があれば被害者とされず、バッシングされます。節子は4歳やから自己責任がなくて、清太は大きな子どもだから、大人になれば、自己責任という世の価値観と通じるところがあります。大人だって、誰しも、選択を誤ることは、沢山あるのが人生なのに、「汚点」があれば、死んでもなお、批判されるというのは、恐ろしいことだと私は思います。だから、清太も節子も、まだ成仏できず、現代の神戸の街を見下ろしているのかもしれません。