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インプットとしてのコーヒー。アウトプットとしてのお茶。

コーヒー好きの人。お茶好きの人。

人は、その人の嗜好性または思考性に従って飲むものを決めている。ただ単に、喉が渇いたときに飲む飲み物としての存在だけでなく、人の心や感情、もしくは身体的なものに関与する飲み物として。

その意思決定への関与はこれまで、その人が生きてきた、そして育ってきた環境、経験や出会いによって醸成されたものであると感じられる。その中でも、コーヒーとお茶、この2つの飲み物に関して言えば、一見するとコーヒー好きとお茶好きに別れてしまうイメージを持ちやすい印象を受ける。

茶畑の中で飲むコーヒー

お茶農家の息子に生まれて

実際、私もお茶農家の息子として生まれて、幼少期は牛乳、牛乳、牛乳、ミルク&コーヒーで育ってきました。(お茶農家の息子関係ないやないかい!お茶を好んで飲むようになったのも、社会人になって、お茶の会社に勤めるようになってからだったことを告白します。)小さい頃は、甘い炭酸飲料に魅了され、大人になるにつれて、甘さ控えめになり、ただの炭酸を好んで飲んでいる自分もいます。

これは人が成長するにつれて、味覚や好みが変わってきてるから当然だと考えられる。一方で、お茶やコーヒーについては、いつから飲んでいるかはさておき、一度飲み始めたら、良い意味で中毒性が強い飲み物であるように思います。
ですから、コーヒー好きな人が嗜好性、思考性が追いつくまでお茶を飲む機会が少なかったかもしれません。お茶好きな人が嗜好性、思考性が追いつくまでコーヒーを飲む機会が少なかったかも知れません。30代になってからは、私もコーヒーを飲む機会も増え、焙煎度合いや鮮度やブレンドなどか気になり始めています。美味しいコーヒーに触れる機会が日常に増えてきたのも影響しているかも知れません。お茶ももっと、コーヒーのように。

似てない様で似ている


面白いことにお茶もコーヒーも全く違う飲み物ではありますが、農作物から作られて、加工されて焙煎されてブレンドされて飲まれるものでもあります。そして、現在に至っては、コーヒー+〇○、お茶+○〇、というような素材そのものとしてのコーヒーやお茶を楽しむだけではなく、その他の既存の飲み物や食べ者の味にマリアージュされて楽しまれる世界が広がっております。それは嗜好性の多様化と言う捉え方、見方だけではなく、コーヒーやお茶の裾野が広く柔らかく、受け入れられている結果であると考えられます。

インプットとしてのコーヒー。アウトプットとしてのお茶。

いつのまにか、そのコーヒーやお茶は、人々にどのように受け入れられているのかについて、とても興味が湧いていた自分がいたことに気づきました。ただ、その解像度は低く、曖昧なままで、明確な答えがあったわけではありません。

先週、地方創生DAOサミットのオンライン対談で、ブランドジャーナリズム代表取締役のアキさんと対談させてもらったときに、鳥肌が立つほどの衝撃的なインパクトで気づかされました。

本を読むときに飲むようなインプットとしてのコーヒー。何か、クリエイティブなものを生む際に飲むアウトプットとしてのお茶。この2つの使い分け定義が、ビジネスパーソンとして働く人たちにとって1つの提案になるのではないか。

もう一度言います。
日常を味わい深くするために本を読むときに飲むようなインプットとしてのコーヒー。

心をほっと豊かにクリエイティブなものを想像するときに飲むアウトプットとしてのお茶。

これで決まりでしょ。

ちなみに、私はお酒好きです。


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堀口大輔/DaisukeHoriguchi
お茶を通じて大隅半島から盛り上げていきます。お茶を一服する行為を世界中にいる人たちの人生のひとときの豊かさに。遊び心もね。インプットとしてのコーヒーそしてアウトプットとしてのお茶。