見出し画像

水たまりから海へ。 | Kii

50年生きてくるとさまざまなことが起こる。最初の25年はさほど不自由がなかった分、後半の25年は目眩く試練の連なりで、まるで私はシャケかと何度喩えてきたことか。

経たことは人生でかならず誰しも経験する類かと言うと、親の看病や介護、のちに両親を見送ったことの他は、割とレアなことばかりと思う。

友だちとの会話で冗談混じりに、もし「人生イベントカード」なるもので対決するとしたら、私は強めのカードをたくさん持ってる、と話したことがある。試練自慢など自虐的に聞こえるかもしれないけれど、それらが今の私を作り上げてきたと自負しているから、そんな機会があれば満を辞してである。暗く寒い向かい風の道を、光を探しながら歩いた日々は、私を耕し、豊かにしてくれたのだ。

私は負けず嫌いだ。誰かと張り合うのではなく矛先は状況で、最善を考えて攻略したい。むしろ起こらなければ至れなかった場所へ至りたいと奮起する。実際ある試練をきっかけに、悲観にまみれるならエネルギーをプラスにと国家資格を取得したこともあった。

そうやって挑むように進んできた中、私は感情よりも常に、状況への対応を優先してきたんだと思う。どう感じているかより、どうすればいいのかを考えてきた。策略的でいるには、感情は大人しくしていた方が賢明だった。以前エッセイに書いた、考えてから言葉を話すと言うのはそんなところからも来ているかもしれない。

夏至の日から巡りはじめた「HAKKOU」は、今11巡目を巡っている。私は、皮切りのエッセイを書かせていただいたので、1つ多い12のエッセイを書いてきた。

エッセイを書く時間は今では自分を内観する時間となっている。思いや過去を振り返ることは、玉ねぎの薄皮を剥ぐように、真ん中を探りあてようとするイメージで向き合ってきた。

12回剥いて思うのは「真ん中なんてない」と言うことだ。時間の流れに沿う私は流動的であり、「私」とは暮らしている行為こそにあると、今は実感している。

昔から、思考をアウトプットするのにA6ノートを持ち歩いていた。携帯するにもちょっと記すにもちょうど良く、常にかばんにある。そこに書き潜めていたことを、現在はこのNOTEに綴っている。

言葉は断片的から文章へ。そして大きく異なるのは、同じ様に暮らしに目を向けて書き記す仲間からの流れを感じられているということだ。

これまで私は小さなノートの中で堂々巡りをしていた。水たまりの様なノートから大きな海へと仲間に導かれ、今はともに暮らしを巡らせ、言葉はどなたかへと辿り着いている。これはひとりでは成し得なかったことだろう。

今年の夏もとても暑かった。ぐつぐつ煮立つような中、世界へ思いを放っていたら、涼しくなった頃にふと、日常で前より抵抗なく思いを話せる自分がいた。

ほんの僅か暑さを残しつつ、スープがなじんだように思える今、次の四半世紀がはじまった予感がしている。

いいなと思ったら応援しよう!

HAKKOU(はっこう)/リレーエッセイ
目を留めてくださり、ありがとうございます。 いただいたお気持ちから、自分たちを顧みることができ、とても励みになります! また、皆さまに還元できますよう日々に向き合ってまいります。