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こころの海に糸を垂らす | 莉琴

文章を書く際はタイトルが指定されていたら、それをまずはこころの中にすっと入れる。
こころの中はこれまで見たり聞いたり、嗅いだり触れたりと五感で感じたものから、傷ついたり淋しかったりうれしかったりと感情にまつわるものまで、いろいろなものが溶け合わさって沈む海のようだ。

タイトルは釣り針のような役割となり、それにまつわるものが集まってくる。ツン、ツンと2つ3つ反応したものの中でどれが最も釣り針に食いつくか静かに様子を伺う。
このとき「釣るぞ!」と意気込みすぎると殺気が伝わって魚は逃げてしまうところが本物の釣りと似ている。無になり、釣り針にかかるのをただ静かに待つ。すると、これぞというものがしっかりと針に食いつき、一気に釣り上げることができる。そして、釣り上げた”目には見えないけれどたしかに在るもの”、まだ”こんな感じ”としか言えないものを精度高くことばに落とし込む。わたしはそのように執筆している。

このリレーエッセイは「”暮らし”を共通テーマとし、前のメンバーの文章から得たイメージやキーワードを元に執筆する」という型がある。
暮らしとは日々の生活すべてとなるため、前のメンバーの文章から得るイメージやキーワードが要となる。

わたしは初見のインスピレーションを大切にするため、いつもさっと読んですぐに浮かんだキーワードを元に執筆していた。
先程の釣りに例えれば、左手に持った文庫本(前のメンバーの文章)を読みつつ、右手の釣竿でこころの海に糸を垂らす。そして、読み終えると同時にすぐに釣り上げて執筆する。わたしにとってはその方があれこれとこねくり回すよりも純度や精度が高く捕えられた。

ところが、今回は初見で読み終えても何もかからず、2回3回と読み返してもそれは変わらなかった。さて困った。こんなことは初めてで、漁法自体を見直さなければならない。
暗記しそうなくらい何度も何度も文章を読み続けた。さながら地引網の様相で、ここまで読み込んで(囲い込んで)いけば何かしら引っ掛かるだろうと手繰り寄せた網の中を見てみたら、名も知らぬ小魚のような記憶がかかっていた。

それは幼い頃に父と海釣りに行った記憶だった。わたしは沖へ出るまでに船酔いになり、なんとか耐えていた。釣りのポイントに到着し、エサ箱が開けられると、ゴカイという黒いミミズに足をもじゃもじゃに生やして平たくしたような生き物が無数に蠢いていた。虫関連全般が苦手ゆえ、それを見て息が止まったが、さらに父が「長いな」と呟いてゴカイを手で半分に千切った。これがトドメとなり、わたしは灰と化してその日は釣りができなくなった。


執筆方法を見つめ直すうちに、自分でも忘れ去っていた記憶が網にかかってくるとはこころの海の広さ深さは計り知れない。時には漁法を変えながら、これからも海と向き合い続けていきたい。







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HAKKOU(はっこう)/リレーエッセイ
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