120パーセント思考 | Kii
考えごとをしているあいだ、私は息をしているのだろうか。そんなことを思うのは、ひととおり考えごとをして終えたあとに、普段は日の当たらない、仄暗い底まで素潜りをしていたような気分になるからだ。息を止めるまでではなくとも、体感的な余韻ではごく浅く潜めていたように思える。
たとえば文章をタイピングしていて、言葉がすらすらと現れないとき。頭のなかで言葉の手探りがはじまると、キーボードの上の指は丸まったまんま、次の言葉が現れるまで身体は静止し、視線だけは、どこかに合わせるでもなく一方向へサーチライトのように、正面や左、右上などへ移らせている。
考えごとをしている空間には、なるべく自分以外に動くものがなく何の気配がないことが私には望ましい。僅かでも気を取られるものがあると、思考のピントが揺れて定まりにくい。なので、何かをじっくりと考えられるのは静寂の得られる、家族が不在の日中か寝静まっている時になる。
そもそも私は、考えるという行為が好きなんだろう。考え尽くした末に「これ」というピッタリの答えが見つかると楽しい。気持ちが晴れなかったり煮詰まっている時、気分転換に「数独」を解くのは、明らかな答えにたどり着けたことで気持ちがすっきりするからだ。
反面、考えることに没頭している間は、身体への意識が薄くなっていると思う。ひょっとしたら身体のことは忘れているかもしれない。そうしてあとになって、肩こりや腰痛など身体に不具合が起こることがあるのは、どこかに余分な力が入っていたり、負担のかかる姿勢で動きを止めていたからなのかもしれない。
ところで私は、日常的に使っているLINEアプリで、特に気に入って多用しているスタンプがある。あるキャラクターが両腕を仰ぎ「120%!」と書き添えているもので、その世界観を好む私は、日常的なあらゆることに自分を超える力を求める生き方をしてきたんだと、最近、様々な働きかけが重なったことで気がついた。
結婚して親になり、さらに仕事も始めて自分の立場が増えていき、必然的にタスクが重なっていっても、それぞれ手落ちなくやりこなそうとしてきた。でも、一時的に、それこそ120パーセントの力を注げたとしても、結局、体調を崩したり完遂できないなど、ほころびが出るばかりだった。
食事の残りものをタッパーに移す時、感覚的にぴったり収まる容積のものが分かる。けれど、たとえ作業量から時間を正確に予測できたとしも、人の暮らしにおいては何のためでもない空白が必要だ。
もうこれからは、考えごとするときには身体も一緒でいたい。走りながら呼吸するのではなく、歩きながら深呼吸をするように過ごしていたい。身体をおざなりせず、日常に余白を作っていきたい。
その境地へと至れた今、ここへと綴ることを機に、意識することをはじめたいと思う。