渡辺勝也研究① 補 -「スーパー戦隊らしさ」とは何か-

先日、「渡辺勝也研究①」なるnoteを公開した。

数多のスーパー戦隊シリーズを手掛けている渡辺勝也に注目し、その監督作を続けて見ていったら何か発見があるのではないか?という試みだ。

そして、延いては「スーパー戦隊らしさ」というものを言語化できないか、という命題を打ち立てている。

①では『ジェットマン』から『カクレンジャー』までを取り上げたが、今回は現段階で「スーパー戦隊らしさ」と言えそうなものを、備忘録として残しておきたい。

まぁ…至らない箇所も多いので、肩の力を抜いて読んでいただければ幸いです…笑

キーワード:「高低差」

結論から言うと、「高低差」というものがスーパー戦隊らしさの一つなのではないか

敵と戦隊メンバー、あるいはロボと戦隊メンバー等、片方が高所にいて、もう一方が低位置に置かれるということ
そしてそれは多くの場合、高所にいる方が優位に立っている

渡辺勝也はデビュー作から「高低差」に意識的で、『ジュウレンジャー』11話では

・トットパットらがランプを海底から釣り上げる。空飛ぶ絨毯で飛ぶ少女。バンドーラは高所からジュウレンジャーや子どもたちを見下ろす。ゆえにバンドーラ側からの切り返しでジュウレンジャーと子どもたちが皆画面に収まる。その他高低差や段差の量が多数あり。ラスト、正気に戻った精は木の上に現れ、子どもたちの元へ飛び降りてくる。ランプは放り投げられ再び海の中へ

渡辺勝也研究①
https://note.com/ha_kachi/n/n2490a9e0e35d

というように、敵の大ボスであるバンドーラが高所から見下ろすショットが印象的なのだ。

そしてこれが、フレームにすべての人物を収めるという語りの経済性を持っていることも指摘しておきたい。
戦隊20分時代なので、効率よく語ることの優先度は高かったのだと想像できる。

他にも、カクレンジャー23話では、

・貴公子ジュニアに敗北を喫するカクレンジャー。三太夫は、ジュニアを倒し、石にされた人々を救うべく、彼らに別れて各々忍びの巻を探せと命ずる
・ジュニアの根城が浮上する。カクレンジャーは敗れて這いつくばる。風雲幻城内では三神将を見上げる。やはり高低差

渡辺勝也研究①
https://note.com/ha_kachi/n/n2490a9e0e35d

というように、敵であるジュニアだけでなく、三神将=ロボとの間にも「高低差」が生じている。

ここでの三神将は、カクレンジャーに命令を下す立場にいて、故に高所に立っているのだ。

ロボ戦における「高低差」

しかし、このような「高低差」の見せ方はスーパー戦隊シリーズに限った魅力ではない。

巨大戦メインのウルトラシリーズはもちろん、優位に立つ悪役との高低差であれば、採石場の崖などを用いて、ライダーでもメタルヒーローでも見せることができる。

では、差別化されている点はどこか。
前項の後半で触れた、ロボに注目してみる。


スーパー戦隊のフォーマットとして、等身大戦で敵を倒すとソイツが巨大化し、ロボ戦に移行する、というパターンがある。
もちろん黎明期をはじめ例外は存在するが、多数派を占めていると言って良い。

基本は、勝った勢いで優位にある戦隊メンバーが、ジャンプした次のショットにはマシンの操縦席に着席、ロボットに合体or変形シークエンスが挟まる。完成したらバトルとなって、概ね勝つ。

対照的に、負け戦。
ヒーローと言えど毎回勝てるわけではない。
等身大戦にせよ、ロボ戦にせよ、強敵に敗れることはままある。

後者の場合、敵の攻撃によって戦隊メンバーはロボットから放り出され、宙空を吹っ飛びながら地面に突き落とされる。

渡辺勝也は、そこで戦隊メンバーを地面に這いつくばらせ、立ち上がれないまま、苦しみながら強敵を見上げる、といった演出をたびたび行っている。

注目したいのは、このキャメラの動き、あるいは編集のリズムである。
ここに「スーパー戦隊らしさ」があるのではないか

言い換えれば、同一キャラクター(たち)が巨大戦と地上戦を縦横無尽に行き来できるということ。この自由さを言いたい。

他の特撮ドラマとの比較

さて大きく出た見出しではあるが…こっからはガバガバである!笑
精査するとキリがないのでほとんど印象で語る形になってしまうが、他の特撮ドラマとの比較をしてみたい。

ウルトラマン

まず、ウルトラマン。
ウルトラマン自身は巨人であるため、基本的には巨大戦になる。
等身大で戦うケースはそもそも稀だ。

等身大で戦う場合は、変身前の主人公or防衛チームのメンバーが小型の宇宙人や怪獣と戦う、というのがイメージされる。
『ウルトラマンレオ』の序盤や、『ウルトラマンガイア』にはそういった戦いが散見されていたと思う。

しかし、前者であっても、等身大戦と巨大戦を行ったり来たりするような画面の運動の印象はほとんどない。

あるいは巨大な怪獣に向かって光線銃を撃つ、というシチュエーションはかなり多く見られるが、それも交互にキャメラが向けられるといった印象。
スーパー戦隊のそれとはだいぶ印象が違う。

仮面ライダー

仮面ライダーシリーズはどうか。
こちらは等身大戦がメインで、巨大戦は劇場版など限られたシチュエーションでのみ行われている印象である。

だがそこでも、等身大戦/巨大戦を行ったり来たりしている感触はないように思う。
等身大で敵を撃破して、巨大な敵を等身大のまま撃破するケースが多いのではないか。『MOVIE大戦CORE』や『レッツゴー仮面ライダー』など、いくつかの例が思い浮かぶ。
つまり、移行の儀式がなく、縦横無尽なリズムが生まれない。むしろシームレスである。

メタルヒーロー

メタルヒーローはどうだろうか。
等身大戦と巨大戦のいずれにも注力されており、だいぶ隣接している気がする。

しかし、宇宙刑事シリーズを筆頭に、等身大戦は等身大戦、巨大戦は巨大戦とはっきり区別されている作品が多いのではないか。

また、戦闘中にコックピットに乗っている印象が薄く、やはりリズムの面でスーパー戦隊とは異質のものであるように思えてならない。
ギャバンがドルギランの頭上で戦うのと、ジュウレンジャーがロボに乗り込むのとではやはり違いがあるだろう。

ぱっと浮かぶ例外は、『ジャスピオン』と『重甲ビーファイター』だろうか。後者には渡辺勝也も参加しており、かなり接近しているのかもしれない。
しかし、いずれにせよ少数派であり、ここで定義する「高低差」が「メタルヒーローらしさ」でもあるとは言い難い。


当然、これ以外にも取り上げるべき作品はあるのだが、収拾がつかないので切り上げる。
しかし、こうなってくると特撮ドラマの幅広い知見が必要なわけで、いや、なかなか難しいな…と途方に暮れてしまう。

参考 -渡辺勝也の見解-

ちなみに、渡辺勝也自身は「スーパー戦隊らしさ」をどう考えているのか。

上記の動画内でまさにそう問われ、氏は「パターン」と答えている。
五人がいて、ロボ戦があって、悪の組織があって…と。
どこか咄嗟に答えたような印象は受けるのだが、一応はそういう見解らしい。

逆にプロデューサーの白倉伸一郎は、本当はスーパー戦隊各々が一個の作品であって、シリーズというのは東映の括りでしかない、というスタンスらしい。
つまり、「スーパー戦隊らしさ」などない!という主張に立っているのだ。


どちらもきっと間違いではない。
しかし、私はやはりナベカツの方を支持したい。
「スーパー戦隊らしさ」はあるのだと!!

とはいえ、「五人・ロボ戦・悪の組織」だけでは説得力に欠ける。何かもう一押しほしいという感じだ。

その一端が「高低差」なのかもしれない、として、今回は締めたい。

お付き合いくださった方、ありがとうございました。

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