セゴビアこぼれ話
この4月末のセゴビア滞在は、5泊実質5日というゆったりとした日程だった。その期間中一日で、セゴビアの南西約70㎞に位置するアビラ(Ávila)まで足を伸ばし、さらにもう一日を、セゴビアから11㎞ほど南東にあるサン・イルデフォンソ(San Ildefonso、通称ラ・グランハ=La Granja)訪問に充てた。アビラは、11世紀末から12世紀にかけて築かれた約2.5㎞の城壁が残る町として有名だ。後者は知名度こそ劣るが、ベルサイユ宮殿を模して1820年代に建てられたサン・イルデフォンソ宮殿(Palacio de San Ildefonso)がある小さな町である。この二日間を除いて、残りの三日はまさにセゴビア三昧。我々夫婦は旧市街を、石畳の道を右に入り左に折れ、また緩い勾配の坂道を上り下りしながら、飽きもせず歩き回ったものである。
以下は、そのセゴビア旧市街の街角で出くわした、思わず顔がほころぶような、小さな感嘆符を付けたくなるような、ちょっと得した気分になるような話題を、いくつか集めた肩の凝らないリポートである。
(各章には便宜上番号がふられていますが、それぞれの話は独立したもので、連続性はありません。)
1) コチニージョ~許して子豚ちゃん
セゴビアと言えば、水道橋だ。水道橋はセゴビアの絶対的なシンボルである。他方、セゴビアには食のシンボルとでも言うべき料理があり、その知名度は水道橋に勝るとも劣らない。それがコチニージョ(cochinillo)である。
このコチニージョほど簡単に説明できる料理はないだろう。たった一言、子豚の丸焼き、これで終り。子豚をまるごとオーブンで焼くだけだ。単純極まりない料理であるのに、コチニージョがなぜそこまで名を馳せているのか?
ポイントは二つある。
まず一つ目は、当然のことながら食材である。セゴビアでコチニージョに使われる子豚は、生後3週間までの乳飲み豚に限られる。体重も4.5㎏から6.5㎏と決められている。これらの条件を外れると、柔らかくジューシーな肉にならないらしい。
もう一つのポイントは焼き具合である。火の加減と焼く時間、そして塩の量が、肉の柔らかさと味を左右する。こちらは、各レストランに独自のノウハウがあるはずだ。
焼き上がった子豚は、客の前で皿を使って切り分けられる。切り分けた後の皿は、床に投げられて割られることになる。これが伝統的なスタイルなのだが、切り分けに皿が使われるのは、肉がいかに柔らかいかを示す為、その皿が割られるのは、正真正銘の皿であることを示す為とされている。
2007年に私の弟の家族が日本からのツアーでセゴビアを訪れた時には、レストランのウェイターに指名されて、弟がこの皿での切り分けを経験したとのことだった。
そのパフォーマンスは、今回、我々がコチニージョを食したレストランでは見られなかった。既に切り分けられたコチニージョが、我々のテーブルまで運ばれてきた。子豚とは言え、一頭で7,8人分がまかなえるボリュームがありそうなので、あのパフォーマンスは、確実に一頭分が同時に消費される団体客用に披露されるということかもしれない。
セゴビアでは、ほとんど全てのレストランのメニューにコチニージョが含まれている。そんな中、ショウ・ウィンドウに調理前の子豚を何頭か並べている店があった。
一様に両眼を閉じ、口を少し開けている。子豚ちゃん達は、「オレ達3週間しか生きられなかったんだ。そんなオレ達をお前ら、平気で食うのかよ!」と言っているようにも見える。ごめん、子豚ちゃん、それでもオジサンはコチニージョが食いたいんだよ。
2) 4月の大雪
このセゴビアの一帯は内陸地帯で、しかも海抜1,000m強。それが故に寒暖の差が激しい。冬場の気温は零度以下になることもしばしば、6月から9月にかけては30度を優に超える。
それでも、4月ともなると寒さは遠のき、日中の気温も上がり始める。ところが今年は、その4月にこの地方を大雪が見舞った。我々が滞在した週のちょうど一週間前、4月15日の週に雪が降り続いたのである。
下の写真は、我々がセゴビアに到着した4月27日の午後、旧市街の一角から撮ったものである。市街地の奥に見える山は冠雪したままだ。
この山はセゴビアの南15㎞ほどの所にあり、La Mujer Muerta(ラ・ムヘール・ムエルタ=みまかった女性)と称されている。写真に目を凝らすと、確かに仰臥する女性が見える。左やや中央寄りの雪をいただいた最初の山頂の右横に、仰向けの顔がある。そこから流れるように伸びた身体の線は女性のものだ。妊娠しているように見えなくもない。山上で永遠の眠りに就いている女性。だからこの山は、La Mujer Muerta「みまかった女性」と呼ばれるようになったのだろう。
雪が消えた時、この女性の亡骸は、凝視せずとも一目で識別できるのかもしれない。が、私は、白い死に装束の女性を山上に見い出せたことを幸運だったと思っている。季節外れの雪のおかげである。
3) 逆さ瓦
まずは、以下の写真を御覧いただきたい。
こちらで使われる蒲鉾形の瓦は、普通その蒲鉾の形状のまま屋根上に置かれていくものだが、これらの写真に示されている屋根には、逆さまに瓦が並べられている。これはこの地方特有の様式らしい。
セゴビア旧市街徒歩ツアーのガイドの説明を借りるなら、「冬場に降雪の多いこの地方では、屋根に積もる雪に対処せねばならない。瓦を逆さまにすることで、雪が滑り落ち易くなるのだ。」 要は積雪対策ということのようだ。
確かに、逆さ瓦を一部が重なるように、下が上を受ける形で並べると、そのまま樋になる。雨であれば屋根の傾斜を容易に流れ落ちていくだろうことが想像できる。では、雪の場合はどうだろう?
積雪対策としてこの逆さ瓦様式が定着したと言っているのだから、雨だけでなく雪もちゃんと滑り落ちていくことは実証済みのはずだ。それにこの逆さ瓦だと、樋になった瓦の列の間に窪みができないから、そこに雪が滞ることはないだろう。瓦の上下を逆にする方式は、雪に悩まされた先人ならばこその発想の転換だったということのようである。
4) 横断歩道の手前にあるもの
セゴビアの横断歩道には信号がない。と言い切るべきではないのだが、車の通行制限がある旧市街の周りには、車両がかなり行き交う道もあるのに、信号が設置されていない横断歩道が多かったのは事実だ。
が、何もないわけではない。信号に代わって歩行者に注意を呼びかける仕掛けが、そこにはあった。
横断歩道の手前の歩道部分に、あるいは横断歩道の最初の白線帯に、大きくPARE(止まれ)MIRE(見よ)CRUCE(渡れ)と書かれている。しかも、赤黄緑と信号と同じ色使いだ。そこを渡ろうとする人が見落とさない程度には目立っている。
上の写真の道路は片側二車線で、交通量が決して少なくないことが見てとれるが、この横断歩道にも信号はなかった。PARE/MIRE/CRUCEの横断歩道なのだ。人の行き来が多い為か、赤と緑の文字がやや薄れているので、単語とそれぞれの色がはっきりとわかる写真を並べておいた。
「右を見て左見て、も一度右見て渡りましょう」。 小学校時代に教えられた標語を思い出しながら横断歩道を渡っていると、車はちゃんと止まってくれた。運転する人達の協力なしには、このシステムは成り立たない。
5) 日本語がこんな所に
旧市街の一画でふと目に留めた行先表示の標識に、何と日本語表記があるではないか。「えっ!」 私はしばし、その日本語を眺めていたものだった。旧市街にはあちこちにこの種の標識があるのだが、それら全てに日本語表示があった。
各地の観光スポットにあるパンフレットの日本語バージョンなら、随分前からある。だが、標識に日本語が含まれているのを見たのは初めてだ。普通はスペイン語と英語、あとはせいぜいフランス語ないしはドイツ語がプラスされるくらいだろう。何とも日本人の心情をくすぐるではないか。
旧市街徒歩ツアーのガイドに、どうして日本語表示があるのかを尋ねてみると、彼女の答は明快だった。「日本人、ほんとに沢山来ていましたからねえ」。ただ、「来ていました」と過去形になっているのがつらいところだ。
確かにセゴビアには、水道橋・白雪姫のお城(=Alcázar<王宮>)・コチニージョと、日本人の旅情とグルメ志向をくすぐるものがある。マドリッドから87㎞という地の利もあって、かなり以前からこの地を訪れる日本人観光客は随分多かったようである。が、このマドリッドからの近さはデメリットでもある。なぜなら、ほとんどの日本人観光客はマドリッドを拠点に動く為、セゴビアへのツアーは日帰りとなるからだ。
そんな短時間滞在が中心の日本人向けに日本語の標識が設置されているわけで、これぞまさに「お・も・て・な・し」ではないだろうか。セゴビア市当局と市民の、我々日本人に対しての好感の現れである。この町にある「日本人ようこそ!」の心遣いに、我々日本人は素直に感謝せねばならない。こういう町との関係をこそ、官民挙げて大切にし維持していくべきだろう。
この章の最後に、日本語にまつわる話題をもう一つ。
この写真は、私達夫婦がコチニージョを食したレストランの入り口で撮ったものだが、そこに置かれていたのは「傘ぽん」なる器械。濡れた傘をビニールで覆う装置である。雨の日に雨滴を気にすることなく傘を店内に持ち込めるので、これは有難い。日本ほどではないにせよ、この地方でも少なからず雨は降る。小雨に見舞われた日本人のツアー客の中に、この「傘ぽん」製造会社の関係者がいて、帰国後この器械を寄贈したのではないか。そうだとすれば、この町との良好な関係維持に間違いなく寄与している。
6) ウィスキー秘話
スペインには、”DYC” という商標の国産ウィスキーがある。酒にはあまり興味がない私は全く知らなかったのだが、さすがに妻は、アルコールをほとんど嗜まないものの、それを知っていた。
このDYCウィスキーの名前が、旧市街徒歩ツアーのガイドの口から出た時、私はだからピンとこなかったのだが、セゴビアの東南東5㎞にあるパラスエロス・デ・エレスマ(Palazuelos de Eresma)という町が発祥の地なのだと言う。「ああ、ご当地ウィスキーの説明か」と思いながら漫然と聞いていた私の耳を俄然そばだてさせたのは、彼女がこんなことを言ったからだ。「このDYCは、日本のウィスキー・メイカーが買収して、今は日本企業の傘下に入っています」。 サントリーか? ニッカか? これは調べてみる価値がありそうだ。
バルセロナに戻った後、DYCウィスキーをインターネットで検索してみた。DYCは、ロウ・エンドのウィスキー・メイカーとして、1958年に設立されている。国産で、スコッチやアイリッシュと比べて安価ということで、DYCウィスキーはスペインではポピュラーなブランドとなっていったようだ。2005年になって、このDYCを米系のアルコール飲料メイカーが買い取った。さらにその後、2014年にこの米系企業を買収したのがサントリーなのである。こうしてDYCはサントリー・グループ入りをしたわけである。
DYCウィスキーは、どこのバール(bar)にも置かれているようで、あるバールで妻に指摘されて酒棚を眺めてみると、DYCウィスキーのボトルがそこに鎮座していた。それまで私は、正直見たことがなかったのである。
ところでこのDYCウィスキー、サントリー経由で日本でも売られているのだろうか?
7) 水道橋よ、永遠に
最後は水道橋で締める。
私達夫婦が1988年に半日ほどセゴビアに滞在した時、アソゲホ広場を縦断する水道橋のアーチをくぐって車がさかんに行き来していた。また弟によれば、一家でセゴビアを訪れた2007年にも、水道橋下を車が平気で通り抜けていたとのこと。
その車のくぐり抜けは、2009年になって禁止された。車の振動や排気ガスが水道橋の耐久性に悪影響を与えかねないことが危惧されたようだ。セゴビア水道橋は1985年にユネスコの世界遺産に登録されており、ユネスコからの要請もあったものと思われる。
車両の通行と水道橋の耐久性の関連性についての科学的な検証は終っていないらしいが、通行を禁止したのは正解だろう。
2,000年の星霜に耐えて原初の形をほぼ保ってきたセゴビア水道橋には、今後さらに少なくとも2,000年、その姿を維持してもらいたいものである。
以上
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