最年少と最年長〜雑草魂の新星と九州のレジェンドが交差する物語
『RUN + TRAIL Vol.37』 2019.6月発売号に掲載した「西日本最長<阿蘇ラウンドトレイル>レポート〜雑草魂の新星と九州のレジェンド〜」を加筆・修正して再掲します。
0関門は、わずか4分
今年で3回目を迎えた『阿蘇ラウンドトレイル』(ART)は、九州初の100km超えレースにして、西日本最長距離を誇るウルトラトレイル。「数年を待たずして大人気レースになるに違いない」と放言していた2年前の私の予想通り、大会の半年前である昨年12月10日、エントリーが開始されると600名の定員を持つフルの部が、わずか4分で締め切られた。
大会史上最年少優勝の黒河輝信(26歳)と最年長完走者の伊藤喜春(74歳)。フィニッシュタイムで15時間近い差のある二人の年齢差は48歳。4分の“0関門”を突破した二人のランナーを追いかけた。
『阿蘇ラウンドトレイル』
熊本県阿蘇市、高森町、南阿蘇村、西原村にまたがる地域の未舗装の山野をメインに駆け抜けるトレイルレース。距離約121km、累積標高約6,834m、制限時間32時間のフルの部と、距離約55km、累積標高約3,774m、制限時間15時間のハーフの部の2つ。この日だけ解放される牧野を皮切りに日本とは思えない絶景が連続する前半と、本格的な山岳地帯の後半が対照的なウルトラトレイル。今年の完走率は、フル65.9%、ハーフ78.1%
レース序盤
レースは序盤から地元熊本の荒木宏太が独走する。
黒河は、最初の関門(23.3km)でトップ荒木との差が25分。4つ目の関門である高森町町民体育館(66.6km)では、45分にも開いた。名門・山梨学院大学で大学三大駅伝に出場し、昨年スペインで行われたトレイル世界選手権で日本代表として12位に入ったトップランナーの圧勝だと誰もが思ったが、背中を追いかける黒河の見立ては違っていた。
「荒木さんが飛ばしていたのは分かっていました。でも、この暑さの中、そのままぶっち切るとは思っていなかったんです。ウルトラトレイルは何が起こるか分からないですからね。自分の走りに集中することを心掛けました」
予想は的中する。高森町町民体育館から12.2kmすぎた高森峠(88.8km)で、黒河はその差を2分30秒にまで縮めた。荒木が脚を痛め、体調不良による大失速をしたためだった。黒河は小さな確信と兜の緒を締め直した。
黒河が荒木との差を一気に詰めている頃、伊藤はほぼ予定通り、制限時間の50分前に3つ目の関門(50.8km)にたどり着いていた。
「豊後街道の石畳の森を抜けた先に飛び込んでくるカルデラの雄大な景色。草原の牧野が続く緑の絨毯。前半は、本当に景色がいいんですよ!何回走ってもここは最高です。私はマイペースで、景色と応援を楽しみながら進んでいました」
「中途半端で、平凡」最年少と最年長の共通点
黒河は少年時代、サッカー部に所属。ポジションは花形のフォワードではなく、タッチライン沿いを縦に往復する地味なサイドバックだった。
「勉強はそこそこ頑張った方だと思うんですけど、一浪です。なんかパッとしない少年時代でしたね(笑)」
一浪して大学に入学した新歓の季節、登山部のポスターに惹きつけられた黒河は、「格好いいなぁ」と、そのまま入部したが、楽しい学生生活が始まったわけではなかった。
「キツいんですよ。50kgもあるような荷物背負って北アルプス縦走するとか。先輩には叱られるし、周囲についていけないし。同級生は女の子と遊んだりして学生生活を謳歌しているのに、僕は休みになると山籠りですからね(笑)」
大学3年時に故障も抱えていたこともあり、退部を申し出る。しかし、先輩にたしなめられ主務に。
「中途半端な日々でした。主務って雑用係みたいな役で、普段は一緒に活動するんですけど、山には同行しないんです(苦笑)」
一方の伊藤は、米軍による絨毯爆撃で一夜にして10万人の死者を出した東京大空襲の僅か2ヶ月ほど前の1945年(昭和20年)1月15日に東京で生まれる。
軍需工場に務めていた父親は、真っ先に標的にされることを考え、母親とともに秋田に疎開させた。おかげで伊藤は焼夷弾の雨から逃れることができた。
疎開先の秋田で義務教育を終えた伊藤は、集団就職で東京の自動車工場に務め始め、30歳の時、バスの運転手に転職。しかし、そのバス会社が倒産し、奥さんの故郷である福岡に移住する。
「西鉄バスが運転手を募集していたので、再就職できました。60歳の定年まで勤めた後、地元の高校のスクールバスの運転手を10年ほど。平凡に生きてきたんですよ」
自嘲気味に話す福岡生活で出会ったのがマラソンだった。伊藤が中年に差し掛かる35歳の頃だった。「何か運動でもせんとなぁ」と思い立ち、福岡市の大濠公園を走ってみたのだ。
ところが、200mで終了。一周2kmの大濠公園を完走すら出来なかった。
「35歳になるまで運動らしい運動をしたことなかったけど、悔しくって、300m、その次は500mと少しずつ距離を伸ばして、何度目かの挑戦で一周を走れました。たった2kmだけど嬉しかったなぁ(笑)」
この体験が、伊藤の人生を変えていく。
一方の黒河は、大手電機メーカーに就職が決まった大学4年のある日、参加者20名ほどの小さな小さなトレイルレースに出た。
「この4年間、何をしたんだ!このまま卒業でいいのか!?みたいな気持ちがあって参加したんです。でも、初めてのレースだからペースが分からなくて、飛ばしまくったら15kmで限界でした。脚は痛いし、もう動けない!って。その時に思ったんです。『ここでも中途半端なのか? 何も変わらないじゃないか』。そう自分を奮い立たせて、残り5kmも全力を出しました。泣きながら走っていたかもです」
まさかの優勝だった。「限界の先にこんな世界があったなんて」と言い表せない達成感と充実感に包まれた。奇しくも二人は走ることを通じて小さな成功体験を得ていた。
それぞれのフィニッシュ
96.6km地点。黒河は、1位と2位のデットヒートがここから始まると覚悟をして、“アミルくん”の名で知られる山形の実力者・高橋和之とほぼ同着でエイドを出る。
ところが、高橋が付いてこない。背中で高橋の後れを感じたまま自分に集中し、600mの登りをプッシュした。
「最終エイドの出ノ口(112.7km)に着くと、ボランティアスタッフをしていた第一回の優勝者・森本さんが『2位との差は20分くらいだ』と教えてくれました。フィニッシュまで8.4km。ワントラブルあればあっさり逆転できるのがウルトラトレイルですから、気を引き締めて、『集中集中』と唱えるように前に進みました」
陸上部出身ではなく、アスリート街道を歩んできたわけでもない黒河は、自分の可能性をウルトラトレイルに見出そうとしていた。
「50kmや50マイルだとスピードがないと勝てないんです。速さだけでない世界というか、トラブルに対して様々な工夫を必要とするウルトラトレイルの世界だったら、僕にもチャンスがあるんじゃないかって」
16時間35分19秒。2位高橋に1時間近い大差の優勝は、人生初のウルトラトレイルレースの優勝でもあり、大会最年少優勝となった。
無名の26歳の若者がフィニッシュゲートをくぐった頃、伊藤は黒河が2分30秒差にまで詰めた高森峠(88.8km)付近にいた。
「ウルトラトレイル」という言葉が一般にどれだけ馴染みを持っているかわからないが、フルマラソン以上の距離を指す「ウルトラ」と未舗装を表す「トレイル」を組み合わせたこのアウトドアスポーツの中で花形種目でもあり、距離、標高差、時間、気温差、自然を相手にした過酷な戦いが、何不自由ない世の中で、なぜか人気だ。
新緑の5月、晴れ渡ったレース時の日中の気温は30℃にもなり、一転、山岳地帯の夜は10℃を下回った。昼間は熱中症と脱水症状のリスクを抱え、夜間は低体温症と睡魔と戦う。
「関門まで1時間以上の余裕を作れたので、順調でした。ただ、レースの本番はここから。ヘッドライトの明かりだけを頼りに不安と孤独との戦いですが、一つひとつクリアする以外に完走の道はないですから(笑)」
後半の南外輪山、九州自然歩道に入るとのどかで優美な牧野が広がる前半の北外輪山からの雰囲気は一変する。55%の距離を終え、残り50km強の中に4,000m近い累積標高を残す、山岳地帯に突入する。
「前後に人はいなくて、ずっと一人旅でした。こういう時はあの木まで行こう!とか、このひと山を越すぞ!とか、目の前の小さなゴールを決めてクリアすることを繰り返すのです。もっとああすれば良かったと終わったことを振り返っても仕方ないですし、ゴールのことを考えるにはちょっと遠い先ですから」
しかし、なぜ伊藤さんは『九州のレジェンド』と呼ばれるほど慕われているのだろうか?
70歳を超えてなお、ウルトラトレイルに挑戦すること以上に、多くの人を引き付けるのはキラキラした笑顔だ。各チェックポイントで見せる笑顔はボランティアスタッフの間では有名で、いつも明るく前向きな姿勢を見る若手は「痛いだの、苦しいだの、伊藤さんを見ていると言えなくなる」と口々に言う。もう、内向的だったかつての自分はいない。
そしてもう一つ、その理由を私は見つけた。
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