釣りエッセイ「わたしの心を揺さぶる解禁日の川」
遠慮がちな春先の暖かい日差しに冷たい川の水。釣り糸から釣竿をブルブルと伝わってくる生命の手ごたえ。水面から跳ね上がる銀色の魚。ランディングネットで掬いあげた魚の確かな重み。思わず笑みがこぼれる。
―― わたしは渓流釣り解禁日の川が大好きだ。
実は若い頃から渓流釣りを楽しんでいたのだが、仕事や家庭が忙しくなりしばらく川から遠ざかっていた。ところが昨年、五十路を迎えたのをきっかけに渓流釣りを20年ぶりに再開した。
子供が高校生になり家庭が落ち着いたこと、勤め先から独立して仕事を始めて時間に融通が利くようになったこともあるが、先の短い人生、好きなことを楽しみたいという気持ちと、自然の中で過ごすことが好きになったことが大きい。テレビもショッピングセンターもない自然の中で過ごすと1日が長く感じられ、ついつい週末なると自然の中に出掛け、気づいたら川の中で静かに釣竿を振る自分がいる。
渓流釣り自体は4月から8月の5か月間楽しめるのだが、その中でも解禁日の川は特別でとにかくワクワクして仕方がない。なにせ9月から3月の7か月間、おあずけをくらってきたのだから解禁日が近づくとソワソワしてその日を待ちわびる。
今年の渓流釣りの解禁日は4月1日。地元広島県の山奥にある釣りのメッカに到着すると足早に川へと向かった。早朝で薄暗くかなり肌寒い。途中、昨年も出会った顔見知りの十歳ほど年上の釣り人と挨拶を交わすが子供のように楽しそうで、思わず自分も笑みがこぼれる。たぶん、お互いに自分の方が楽しいと思っており、さらには自分の方が先に魚を釣りあげると思っている。もしかしたら釣れないかもしれないのに。
―― 釣り人はみな、結果が分かる前の「これから釣りを始めるぞ!」というタイミングが実は一番楽しいと思っている。
年に一度の解禁日は釣り人にとっては小学生の遠足のようなもの。遠足だからもちろん食べ物を持って行く。いくら釣り好きでも腹が減っては魚とのいくさはできないのだ。
知人の釣り人たちと話をしてみると道中にコンビニでおにぎりを買っていく者もいれば、現地でカップラーメンを作る者もいる。現地で釣った魚を天ぷらにして食べる猛者もいて、わたしも何度かチャレンジしたことがあるが、ある時、魚が釣れずに何も食べられなくてキツかったのでやめた。空腹でキツイというより自分が空腹なのに釣れもしない魚にエサを提供し続けるのが精神的にキツかったのが理由だ。なお山間部にはコンビニが無いので、今は事前に立ち寄って釣りをしながらも食べやすいおにぎりを買っていく。
―― 釣り人はみな、早朝から開いているコンビニとおにぎりが大好きだ。
釣りのスタートは朝6時。気温は5℃くらいだろうか。薄暗い中、砂利に足を取られながら川に入る。あせると苔で滑るので足下に注意して「昨年もこんな感じだったな」と思いだしながらお目当ての釣り場へと向かう。じゃりじゃりと川を歩いていると凍えるほど寒いはずだが不思議と寒さを感じない。だが、それは気のせいで、釣り場の場所取りが終わって落ち着くとすぐに身体の芯まで冷えてくる。
―― 釣り人はみな、場所取りに熱中し寒さを忘れるがすぐ寒さに気づく。
いざ釣りを始めても手が凍えて釣りの仕掛けの糸がうまく結べず、薄暗くて川の様子もわからないのでなかなか釣りにならない。そもそも魚も水温が低いとエサに食いつくこともないだろう。「魚って冬眠するんだっけ?」などと調べるつもりもないことを考えていると遠足気分は消え去り、冷静になると「なんでこんなに寒いのに川に入らなきゃいけないの!」とバカバカしくなってくる。実際、家族にも呆れられるし褒められた話ではないだろう。
―― 釣り人はみな、魚が釣れないと冷静になり自分の行動の愚かさに気づくが決して後悔しない。
寒さに耐えかねて川から出て場所を変えようとすると、まわりの見知らぬ釣り人と目が合う。相手は動く気配が無いがサングラス越しにこちらの様子をうかがっていることはわかる。間違いなく「釣り場を狙われている」と判断するのが適切だ。なぜならわたしも同じことを思うから。自分が動けば釣り場が取られてしまうと思うともったいなくて動けない自分がいる。
こうなると我慢比べだ。魚との我慢比べの前に釣り人同士の我慢比べになる。この我慢比べの勝者だけが解禁日に魚を釣り上げることができるといっても過言では無い。それだけ魚の警戒心が薄い解禁日は「場所を押さえさえすれば釣れる。」のだ。この我慢比べがなんだか楽しい。
―― 釣り人はみな、根拠の乏しい我慢比べが大好きだ。
時間が過ぎて8時を回るころ、まわりはすっかりと明るくなり徐々に気温が上がってくる。日の当たるところにいれば少しだけ暖かくなってくるが、これは川の中も同じで気温の上昇に合わせて魚の動きが活発になり、水中を素早く泳ぐ魚や川面を小さく跳ねる魚が見えてくる(ような気がする)。
そして、その時はやってくる。釣り竿から伸びた糸に付けているピンクと黄色の目印が不自然な動きをしてやがて竿先が小刻みに震える。いわゆる「アタリ」というヤツだが、この小さな震えが激しく心を震わせる。心臓がドキドキしながらも不思議と頭はキンと冷えて冷静になる。続けて突然訪れる魚がエサに食いつく確かな手ごたえに合わせて竿先を真上に軽く上げる。魚が針掛かりすると竿が大きくしなり、銀色に輝く魚体が姿をあらわし、水中を震えながら左右に逃げるように動く。動きにあわせつつ竿の反動で魚を引き寄せ、手にしたランディングネットで掬いあげて釣り上げる。
一本の竿とそこから伸びる細い糸を通じた魚とのやりとりは、大昔、人類が狩猟生活をしていたときの記憶なのか「獲物を獲る」という本能を揺さぶり、子供の頃、虫取りをしていた時のように夢中になれる。
―― 釣り人はみな、シーズン最初の釣りは童心にもどり最高の気分で獲物を狙う。
ひとしきり釣りをすると太陽が高くなっていて、昼ご飯を食べていなかったことに気付く。他の釣り人から目立つように道具を置いて釣り場をキープしてから川岸に登りコンビニのおにぎりを食べる。ごく普通のおにぎりだが目の前に川があり、横には魚が泳ぐバケツがあり、海苔が持つ磯の風味が釣りのシーンにマッチして心地よい。コンビニおにぎり特有のしっかりした歯ごたえも嬉しい。
―― 釣り人はみな、釣行時の美味しいおにぎりを食べるために釣りをしているような気がする。
それなりの数の魚を釣りあげて自宅に持ち帰ると家族も喜ぶ。高2の娘は魚が大好きで骨まで食べるくらいだ。家族の喜ぶ顔を見るのも嬉しいが、実はそれよりも「しっかり釣れたら次の釣りに行く許可を得られやすい。」という安堵の気持ちが強い。魚が釣れないとやっぱり家族の目が気になる。できれば家族に応援してもらって釣りにいきたい。
―― 釣り人はみな、魚との駆け引きと同じくらい家族との駆け引きが大好きだ。
解禁日が過ぎるとそれからしばらくの期間は釣りを楽しむことができるのだが、どうしても解禁日ほど胸の高まりはない。正直、だんだんと山奥に出掛けるのが面倒くさくなってくる。
理由を考えてみると、解禁日は魚がたくさん釣れるということもあるが、釣りが解禁されるままで長い期間、おあずけをくらってからの解放感があることが大きいだろう。
解禁日の反対は禁漁期となる。禁漁期は魚を育てるために設けられているが、釣り人にとっては仕事や家庭生活を充実させ、釣りに行きやすい環境を整える期間である。その努力からの解放感が解禁日の胸の高まりにつながるといえるだろう。
今年ももうすぐ釣りの期間が終了し禁漁期になる。来年も大好きな解禁日の川に出掛けるためそろそろ仕事や家庭生活の充実に取り組みたいと思う。
―― 良い釣り人は魚を釣ることに真剣なだけではなく、仕事や家庭と両立することにも真剣だ。
【コメント】
こちらはエッセイのTR科目の事前のレポート課題で提出した文章です。誤字などを少し修正しています。
このエッセイなのですが、実はスクーリングのエッセイを受講する時に事前課題として書いていた文章がベースになっています。とくに提出も無かったので、講義の内容を踏まえて完成させたものです。
できるだけ、現場のイメージを具体的に描写したり、感情を出したり、自分が何者なのかを伝えることを注意して書きました。
途中、まとめみたいな一文が入っていますが、これはスクーリングの事前課題の文字数がよくわからず、短めの文章を組み合わせて1200文字でも2000文字にもできるようにしていたためです。なんとなくわかりやすかったので、そのまま活かして仕上げました。というか、このまとめの一文を入れる書き方、私が資料を作成するときのクセですね。
この文章が事実上、初めて書いたエッセイになりますが、スクーリングの効果が出たのかS評価をいただきました。たまたま講師の方の興味と合致しただけかもしれませんけど。