神様の真実
たとえば
神様がいるとする。
が、誰もその正体は知らない。
人間は思う。
こうなりたい、こうしたいと。
その秘めた思いは人格としてあらわれ、環境を通して表現している。
環境はあくまで表現をする場であって
環境が人をつくることはない。
多くは環境(外側)を改善することにはとても意欲的だが、自分自身(内側)を改善することにはひどく消極的だ。
自分自身を改善しなければ環境が変わることはない。何より環境(外側)の改善に取り組む人は困難を生み出しているのも自分自身であるということに気づくことはないだろう。
思い≠願望
思いが強いから願望が叶ったは嘘
お金持ちになりたい、プロサッカー選手になりたいと思っていても、そうなりうる可能性や相応しい人でいなければならない。
思いの正体は自分が望んでいるものではなく、自分と同種のものを引き寄せる性質をもつから。
思いというのは全てのはじまりだ。
私たちは自分が思っている通りの人間にしかならない。
自分という人をどの道に歩かせるのか決めることができるのは自分でしかない。
それは場の空気にも他人にも入る余地はない。
自分と自分の距離感は一定であり、運命を決めるのは自分だけだ。
PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ
元イタリア代表のロベルト・バッジョの名言である。
バッジョの思い、人格を感じる。
PKを蹴ると決めたのは自分自身であり、外したのも自分。チームメイト、ファン、チームに関わる全ての人を敗戦に結果として持ち込んでしまったが、誰も彼を罰することはできない。
バッシングや誹謗中傷はあくまで外側の話であって本質的には誰も彼を罰せない。
そこから立ち上がるのも、どん底に落ちるのも
自分自身の最終決定権は常に自分にある。
自分と自分の距離感は一定であり、運命を決めるのは自分だけであるのだ。
もし、運命を決める神様がいるとするなら
神様はすぐ近くにいるのかもしれない。