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恐怖について
恐怖について
一昨日、ジムに行って、いろんな人とマススパーリング(怪我しない強度の実戦練習)をした。
初めての相手とやるのは少し怖い。初めてじゃなくても、コーチ以外だと少し怖い。向かい合うだけでも怖い。
俺よりも経験の浅い20代くらいの子が、強そうな人とスパーをやっている。
腰がひけている。苦し紛れにローキックを出すと、強めのローキックが帰ってくる。
そりゃ怖いよな。退がりたくなるよな。
動きが止まると何度もローが飛んでくる。
最後は、蹴られた足を抱えて倒れ込んで終了。
保護してるとはいえ、結構痛いよな。
次は自分の番、確かに怖い。でも死にはしないだろう。
思いつくこと色々やってみるしかない。
自分の距離を意識する。前蹴りで距離を取る。飛び込んでフックを打ってみたりする。左のローで牽制して、足元に意識を向けさせる。
ちょっと疲れて、動きが止まると、途端に強い蹴りが飛んでくる。
「怖っ!」
そうなんだ。休んだらダメなのだ。
恐怖で萎縮したらダメなのだ。
萎縮したら、一方的に蹴られて終わりだ。
自分の距離、自分の蹴り、自分のパンチ、どうしたら届くか?
打たれることを恐れず、いろんな方法を試さなければ。
死にはしない(多分)。
第一、萎縮していたら、相手に失礼だ。せっかく時間をとって対峙しているのだから。マススパーも結局コミュニケーションなのだ。
恐怖と向き合いながら、3ラウンドを終え「ありがとうございました」と言った時の達成感。
緊張からの緩和。
これがすごい気持ちよかった。
恐怖に負けず、最後まで立っていられたってことが一番大事。ロッキーの如く。
恐怖することは合理的ではない。
仮に、本当に生命の危機があるとしても恐怖していてはダメだ。
熊と遭遇した時、ただただ怯えていたら、高い確率で死ぬだろう。
どうするかを考えるべきだ(逃げるにせよ戦うにせよ)。
危機的状況において、どうするかという現実的な判断ができるようになるためには、そういう状況に身を置く訓練をするしかない。
マススパーリングとか「死にはしない」という前提で緊張状態に慣れるしかない(ホラー映画とかも緊張状態に慣れるのにいいかもしれない)。
話は変わるが、Abema で「チャンスの時間」のブレイキングヤンチャオーディションを観た。これはすごい。
ハイパー緊張状態。臆したら、終わる。
あの極度の緊張状態で反射神経と度胸を試される。
芸人のみならず、格闘家にも、スポーツ選手にも必要な資質。というか、自立して生きたいのなら誰にでも。
スベったって死ぬわけじゃない。恐怖したり臆したりする意味はない。
でも怖いだろうなぁ。
怖がる人はあの場に立つべきではないが、常人じゃ空気に飲まれるのは仕方がない(千鳥の二人は、怖がる人も含めどんな素材も調理する。ある素材でどうするか、というのが彼らの仕事だろう。そこで臆していたら勿体無い)。
あの場で必要なのは、面白さはもちろんだが、何より臆さない勇気なんじゃないか。あの緊張状態と緩和のリズムを楽しむことができる胆力だ。
ところで、スベることは、なぜ怖いか?
それは、他者との関係性に対する依存が強いからだろう。
「おもんないと思われたら死」ぐらいに思っているからではないか?
別に誰かに「おもんない」と思われたって死にはしない。「おもんない」と思われるだけだ。
しかし、他者との関係性に依存が強いと「おもんない」=「死」みたいに、スベるリスクを過大評価してしまう。
結果、恐怖し、萎縮し、能力を発揮できず終わる。
これは、「スベる」以外でも同じだ。
好きな人とか憧れの人と話すとき、嫌われることを恐れて、萎縮したり強がったり。
あるいは、貧乏を必要以上に恐れて、やりたくない仕事にしがみつき、やりたいことにチャレンジできなかったり。
実際、日本なら貧乏したって死ぬことはまずないだろう。むしろ、貧乏によって他者との関係性が維持できなくなることを恐れるのかもしれない。いずれにしても死にはしない。
リスクを過大評価し、恐れるあまりに、やりたいことができないって、めちゃくちゃ勿体無い。
恐怖すること自体、はっきり言ってあまり役に立たない。過剰すぎる。
この恐怖する機能を最適化するためには、緊張状態に慣れる(緊張と緩和を楽しむ)ように訓練することと、スベりまくる(失敗しまくる)ことが大事だろう。
ブレイキングヤンチャオーディション観てたら「あれ?俺のこの恐怖って無駄じゃない?」って思えてくる。