蚊
『私は蚊であります。
なんの例えでもなく、ショウチョウテキな話でもありません。
まぎれもなく蚊なのです。
人の言うところの、蚊という虫に相違ございません。
ハエ目糸角亜目カ科に属する、蚊、です。
分類に関しては、今しがた調べたのだから間違いはないかと存じます。
その蚊が、あなたになんの用かと言えば、取りたてて用はないのです。
私は、ただ蚊であるが故に、蚊としての本分を全うしているだけに過ぎないのです。
それがなんの因果か、こうしてあなたの頭の片隅に、邪魔することに相なったのです。
せっかくなので、昔の話にお付き合いいただこうという所存なのです。
何が”せっかく”なのかはわかりませんが。
今、私がいるこのビルと隣のマンションの敷地は、塀で区切られていて、その塀の内側の一階の半分ほどは、駐車場が占めております。
駐車場の塀側には物置きが並び、その物置きの影には、灰皿スタンドを置いただけの喫煙所があります。
そこから、ビルの隙間の外に目をやれば、高架道路があります。
細長い視界の中を、巨大な質量を持ったトラックが、ひっきりなしに横切っていくのが見えます。
あまり愉快なものではありませんが、それがその場所から見える唯一の景色なのです。
そのいくらか不愉快な喫煙所の、喫煙所たる所以である灰皿スタンドの中の、赤茶けた水の中で、私は生まれたのです。
生まれてからはしばらくは、その汚水の中で過ごしました。
それはそれは穏やかな日々で、ふわふわと浮かんで、時々、微生物かなんかを食べたりして、食べたらまたやっぱり、ふわふわ、ふらふらと、漂っておりました。
そんな日々を過ごしているうちに、いつしか、私の身体は、硬い殻に覆われて、サナギと相なりました。
それまでにしたって、もともとなんだかよくわからない棒状の存在だったのですが、サナギの中では、ドロドロとした、曖昧な、表現され得ない何かが、絶えず攪拌されていて、その状況そのものが私でした。
へんてこな説明ですが、そうとしか言えないのです。
けれども、その曖昧な何かが、徐々に形をなし、脚、触覚、翅なんかが出来上がっていったのです。
私は、完成した自分の身体の、そのあまりにも機能的なフォルムに、惚れ惚れしてしまいました。
各器官は、私の欲望の存在をありありと示し、私に、私の生きるべき物語を絶えず語り続けるのです。
もうその場所に、とどまり続けることなど、できませんでした。
翅を震わすと、毎秒数百回の振動に身体全体が支配されます。
そして空気を、激しく叩きつけながら、私は飛んだのです。
あの時の気分といったら!
それは筆舌し難いものです。
経験してみないときっとわからない、そういう類のものなんでしょう。
そんな感動を味わうのも束の間、私の欲望を象徴するように、ピンと伸びた触覚が、敏感に、ジュワジュワと、何かを感じ取ります。
それは、食欲と性欲を同時に刺激するような直感です。
たまらずに、誘われるまま、柔らかく甘い熱を帯びた地表に降り立ちます。
私は、誰に教わったわけでもなく、ノコギリ状の顎を素早く器用に上下させ、切り開いた隙間に、針を捻りながら、滑り込ませたのです。
このどこまでも静かに、あまりにも自然に営まれる行為の中に、壮大な時の流れを感じました。
それと同時に、何にも代え難い喜びが私の腹の中に注ぎ込まれていったのです!
私は、吸い上げる。
満たされるまで。
何度も、何度も。
これが何回目か、もう覚えてはいないのです。
今、その何回目かの吸血の、その最中に、私は、命を落とさんとしているわけです。
吸い上げたばかりの血をぶちまけて、あなたの、運命的に、浅黒い、肌の上に、宿命的な、赤い染みを残して、壁画のように、貼り付けられ、あっけなく、死ぬのです。
そしてその染みも、直ちに拭き取られてしまうでしょう。
誰も私の死を悼まない。
それは、虫刺されの痒みにさえ劣る、取るに足らない出来事でしょう。
それでも、私は、今この瞬間においてさえ、死を恐れてはいないのです。
私が何を言わんとしているのか、お分かりですか?』
私はヒトであります。
なんの例えでもなく、ショウチョウテキな話でもありません。
まぎれもなくヒトなのです。
ヒトの言うところの、ヒトという動物に相違ございません。
ホモ・サピエンスの、ヒト、です。
それがなんの因果か、こうしてあなた様の頭の片隅にお邪魔することに相なったのです。
せっかくなので、私の話にお付き合いいただこうという所存なのです。