スッキリしてない人にも読んでほしい『The Last of Us PART2』のストーリー分析+感想【ネタバレあり】
[まえがき]
この記事は、「エンディングを観終えたけど、氣持ちの整理が追いついていない」。
そんな方にも、また「違った物語の見方」を提供できるよう意識して書きました。
そもそも、「物語のなかに入りこんで楽しみたい」という方が多いでしょう。
しかし今作において、その楽しみ方では「つらすぎる」と感じてしまった方も、多かったはず。
そこで、ストーリー分析的な「視点を高くする、俯瞰したものの見方」で、この物語をとらえてはいかがでしょうか。
そうすれば、すこしはあなたのモヤモヤも、「ハッキリと見えてくる」かもしれません。
少々、いや、そこそこ長くなってしまった本文ですが、よろしければぜひ、のぞいてみてくださいーー。
※この記事には【ネタバレ】が「ふんだん」に盛りこまれております。まだ【クリア】をされていない方は、ご注意ください。
なお、これは『The Last of Us PART2』の「考察」ではなく、ストーリー分析的な見方からの【感想】になります。
ちなみに自分はROM専です。プレイ動画を観終えて感じたことを「共有したいな」と、書き連ねてみました。
なんとなくですが、文体は硬めに書いてます。
・ ・ ・
2020/07/23〜 執筆。
8/18 投稿。
8/24「内容はそのまま」に、読みやすくなるよう、前半部と記事全体を大幅に改変。(ありがたいことに、前記事には「♡」をいただいておりました。ですので、別記事にて残すことにいたしました。)
8/28 再投稿。
8/30 追加の記事を、別の記事にて投稿。(最下部にリンクあり。)
#ゲーム
#ストーリー分析
#感想
#コラム
#thelastofus2
#ラストオブアス2
#ラスアス2
・ ・ ・
ーーこれは、「復讐」の物語。
雪のふりしきる山中。
ロッジのなかで休む、若者の集団。
うなされて目を覚ます、一人の少女。
その体つきをみれば、彼女がただの「かよわい乙女」などではないということが、よくわかるーー。
はじめに
前作から「七年」ーー。
『Naughty Dog』の制作陣は、累計1700万本というメガヒットを記録した『The Last of Us』の続編に、「アビーという視点」をもってきた。
しかし、なぜ彼らはこの視点を、「作品全体にたいして」まで、深く織り交ぜたのだろうか。
また、もしも「アビーの視点がなかった」場合。プレイヤー、または観客たちにとって、この物語は、どのように見えたのだろうか。
そういった想像をしてみることから、この作品を読み解く「キッカケ」を作ろうと考えている。
「脚本の手法」において「第三者の視点を持ちだす」ときには、たいてい、ひとつの「狙い」があるという。
それは、物語を観ているものから、一歩引かせた視点を作り、その物語を「客観的に見せたい」ときに、よく使われるようなのだ。
しかも今作では、物語のもっとも序盤から、この「第三者の視点」が持ちだされている。
これが示すことはつまり、「この作品の全体を見せる」において、それだけ没入して見させたくなかった理由があった、というわけだ。
くわえてこれは、「映画」や「テレビドラマ」ではない。この作品は、直接、べつのキャラクターを操作する(させる)ことが可能な「ゲーム」なのである。
この「ゲーム」という手法は、「客観」だったアビーを「主観」に切り替えた。
そこで作られた「アビーの視座」は、主人公であるエリーとは、正反対の「視点」と「考え(思想)」を明確に示し、その表現を作ることに、みごと成功した。
さらに、のちにこの物語が語られていくうえで、「もっとも大切なもの」がある。それこそが、この作品をとおして、制作者たちが「本当に伝えたかったこと」のはずだ。
それを端的にいってしまえば、この物語のなかで描かれた「道徳観」や「倫理観」などをとおして、
「観たものの人生を変えてしまうくらいの『なにか』を、持ち帰ってほしい」というところにいき着くはずだ。
「アビーの視点」は、それらを作りあげていくための「いちばん大きな材料」として、この物語を観るものに提供されたのだ。
ーーさて、ここで気になることがある。なぜ彼らは、アビーという「強烈」なキャラクターを作りだし、あのような位置づけにしたのだろうか。
これについて、自分なりの「ストーリー分析」を交えた物語の見方と、それらを含めた「感想」とを、これから述べていく予定である。
それと同時に、この自分の「ただのひとり言」にたいしても、ぜひすこしの間、付き合っていってほしいとも願っている。
「アビー」という救い
「前作の主人公」。
それは、前作のプレイヤーたちにとって、「いちばん親しみのあるキャラクター」となっていたことに、異論はないだろう。
前作で、あなたとジョエルは文字どおり、「一心同体」であったはずだ。
感染者に襲われたとき、プレイヤー自らも「手に汗をにぎって」、懸命に戦ったのではないだろうか。また、敵対している人間を見つければ、まるでジョエルになった気分で、「自身も息をひそめて」敵の背後へ、「そーっと」近づいていった。そうではなかっただろうか。
しかし、今回の作品では、その「前作の主人公を殺す」という、「最強のカード」を切ってきている。
もちろん、これは「バーチャル空間上」のできごとではある。だが、前作では自身の身体感覚までをも「彼」に重ね合わせた相棒だ。決して短くはない時をともに重ね、強く親しみを感じていたキャラクターであったはずだ。
そんな大切なキャラクターを、一心同体だった自分の片割れを、われわれは目の前で「失う」のだーー。
昨今のエンターテイメント作品は、基本的には「ハッピーエンド」だ。
客は、見ていてツライものに金なんかださない。作る側もそれがわかっているから、客を喜ばせて金をとる。
心をえぐったり、見たくないものをあえて見せるような「高尚な芸術作品」は、よそでやってくれってわけだ。
当然、主人公は死なないし、死んだとしても、英雄的な最後を迎えて、観終えたものたちを満足させてくれる。
それは、「それがそこにある」のが当たり前であったはずのものだ。どんなに酷い仕打ちを受けようが、幸運にも彼は死なず、そのうち反撃にでるはずだーー。
「ーー彼は前作の主人公なのだから」
そう、タカをくくって、観ていたはずだーー。
だがそれは、観る側の準備ができていない虚をついた隙に、一瞬でなくなった。
……これはまるで、「空気」に似ている。
なくなったと気がついた瞬間、急に胸が苦しくなる。
コアでディープなファンであればあるほどに、その効果は「絶大であった」。このことは、ネット上に吹き荒れる賛否繚乱の嵐をみれば、いうまでもない。
そう、「エリーの視点だけ」だったら、とてもじゃないが、こんなものは耐えられない。
それほどまでに、シナリオライターたちは「凶悪なカード」を切ったのだ。
ここで、さきほど示した「没入して観させたくなかった理由」が、ハッキリと見えてきたのではないだろうか。
つまり、「アビー」とは、シナリオライターたちがわれわれに用意してくれた、この物語を最後まで観られるようにするための、【せめてもの救い】であったのではないか、ということだ。
そして皮肉にも、これによって「道徳的なメッセージ」も、よりいっそう強まる。
西洋的な脚本手法、ようは、「ハリウッド的ものがたり」は、「道徳的なまとめ」をもって、物語の幕引きを意識していると感じる。
それはどうやら、一方的に押しつけるようなものであっては、いけないものらしい。
押しつけられた道徳や倫理観などは、説教くさくなるのはもちろん、それだけではすまされない。失敗すれば、物語の質までをも奈落の底につき落とし、あっというまに三流作品へと様変わりさせてしまうのだから。
最終的な物語のまとめ、「道徳的対立」についての感想は、一番「オイシイ」ところになるので、後述までにとっておこう。
ここからエンディングへ向けて、掻いつまんでではあるが、「ストーリー分析的な見方」から、物語を読み進めていく予定である。
それに、エンディング付近で「これ」を述べる方が、それだけ面白く、みなさんに提供することができるはずだーー。
四つの舞台、四つの対立軸
『The Last of Us PART2』。
このストーリーを観終えてみれば、過去という時間軸も含め、「四つの舞台」から成り立っていることがわかる。
過去を表現することにおいては、物語をより楽しませるために用いられていることがわかる。なので、今回は分析する要素からは外させてもらう。
さて、「現在」という時間軸のなかで、プレイヤーがプレイする主なフィールドは、あらためて次の三つ。
「ジャクソン」
「シアトル」
「サンタバーバラ」である。
「ハリウッド的ストーリー・テリング」にも、どうやら流行りがあるらしい。
キャラクター間の構成として、主人公をふくめた、ライバル関係にある個人や組織を「四つ」そろえたあとで、それぞれが睨み合う「四つの対立軸」を用いる。これが、昨今の主流となっているようだ。
つまりは本作品も、その例外ではないのである。
ジャクソンでは、エリーも含めた「街の住民たち」、「感染者」、アビーを中心とした「旧ファイアフライの復讐者たち」と、「三つの対立軸」が用意されていた。これは序盤の舞台だけあって、物語においても、あまり負荷のかからない対立構造である。
シアトルでは、エリーを含めた「ジャクソンの復讐者たち」、「感染者」、「WLF」、「スカー(セラファイト)」と、きれいに四つの要素が用意されている。これが「四つの対立軸」である。この構造のため、それぞれが互いを睨み合い、物語に深みをもたせることが可能となっている。
最後の舞台であるサンタバーバラ。ここでも、「エリー」、「アビー」、「感染者」、「ラトラーズ」と「四つの対立軸」を用いて、シアトルと同じかたちが生みだされている。これによって、さらなる緊張感と複雑な物語を作ることに成功していた。
この三つの「舞台設定」からは、次の「対比」が敷かれている。
ジャクソンでは、もちろん、それなりの規律が存在するようだ。しかしながら、街のなかの風景を見まわすと、どこか田舎の風景がもっている、のびやかな「自由」がそこにはある。
他方、シアトルのWLFでは、ジャクソンにくらべ、「より規律を重んじさせる環境」が作られている。都会にある高い建物が空を覆う景色に、スタジアムのなかという住環境の狭さもくわわり、「窮屈さ」が演出されているように感じられる。
そしてサンタバーバラでは、奴隷の扱いを受ける人々が用意されており、そこは、極限まで「抑圧」された土地であった。その様相は、この物語の最後の舞台、「決戦の地」としての演出が、しっかりとなされていた。
ーーこれらの特徴も踏まえつつ、続きを読み進めていただきたい。
物語をシアトルで終わらせなかった『Naughty Dog』
物語の途中、シアトル、アビー編にて。私はこの物語を観ながら、ずっと考えていたことがあった。
それは、この物語の終わりは「シアトルで描くもの」だと予想していたことだったと。だが、『Naughty Dog』のストーリー・テラーたちは、シアトルで物語を終わらせなかった。
もちろん、シアトルの地でこの物語を終わらせることは、充分にできたはずだ。具体的にいえば、シアトルで、エリーがアビーを「殺す」のか。それとも、エリーはアビーを「許す」のか。
アビーからエリーにもどり、ふたつの選択を迫るように仕向ければ、道徳的帰結も提示することができよう。
それに、ここにいたるまででも、道徳的な提示は、充分に見せることができているのでは? と、「エンターテイメント感覚」では、つい、そう考えてしまう。
だからこそそうすれば、そこで晴れて、無事に「エンディング」を迎えられるはずだ。……こう考えてしまったわけだ。
だが、驚くべきことに、彼らは、そうはさせなかったのだ。
シアトルでは、アビーからエリーにはスイッチをさせず、
「アビーで」エリーを倒させて、
「アビーが」エリーを、「許す」かたちにしたのだ。
……ここで、すこし考えてみてほしい。これは理不尽な話だ。エリー編を引きずり、エリーからの目線で物語をとらえようとしていれば、次のように判断できる。
ジョエルを殺した彼女の方が、「先に」エリーを許した。
ーーこのように見えるのだ。
たしかに、ストーリーの流れでは、彼女にとって、「レヴ」という存在がいたことも大きかったのだろう。しかし、これまでをともにしてきた仲間たちや、好きだったオーウェンを失っても、アビーは、エリーを「許した」のだ。
このあたり、前作のファンであれは、そのあたまの中は「ぐちゃぐちゃ」になっていたことだろう。
当然、前作やエリー編をプレイした人間ならば、「エリーの視点」から物語を追っていきたいと願ったはずだ。
だというのに、感情移入をさせた「エリー」ではなく、復讐をするために追っていた「アビー」という人物にプレイが移ったまま、「プレイヤー」は、エリーを倒すのである。
アビーのキレイな右ストレートが、エリーの左頬をとらえる「あの画」は、まさに強烈だった。あの何度となく振り抜かれた「拳」は、ファンたちの複雑な感情とともに、エリーの頬骨もろとも、鮮やかに打ち砕いていったことだろうーー。
シアトルでの敗北のあと、一方的に許されたエリーは、ジャクソンに帰る。
ジャクソンでの生活に戻り、ディーナと赤ん坊がそばにいても、
エリーはあの日、ジョエルを失ったできごとが、悪夢のように、あたまの中を這いずりまわっている。
彼女の時間は、いまだ「止まった」ままなのだ。
そこへ、トミーがやってきて、エリーは「未来」を生きるディーナと赤ん坊のもとを去り、自分の「過去」へと帰っていく。
(なぜトミーをシアトルで殺さなかったのかが、少々疑問だった。しかし、トミーがアビーの居場所を話しはじめたとき、「ああ、このためだったか」と推察てしまったのは、内緒のお話ーー。)
ーーそして、物語の舞台は決戦の地、「サンタバーバラ」へ。
話はすこしそれるが、エリーがアビーの追跡中、ラトラーズの罠にかかり、脇腹に重傷を負った件について。
あれは少々強引だったのではないか、とすこし脳裏をよぎった。
だが、元気なエリーが、弱ったアビーを一方的に殴り、エリーの感情を下手に狂わせるシーンで、終わりとしたくなかったのだろう。
この物語は、感情を見せるコントロールを、丁寧に計算している。
なのでこの点については、一度目をつむって、物語を楽しんで観てもいいのだろう。
なぜならば、この二人の最後の対決は、最高に複雑な場面に仕上がっていたからだ。
最後の戦い。
彩度の奪われた、泥水のような浅瀬。
エリーは、小舟に横たわるレヴの喉元に「ナイフ」を突きつけ、もはや戦意のないアビーに、「戦え」と促すーー。
つまらない言葉でこの物語をつむいでみれば、これは、エリーとアビーの「泥試合」。
「復讐から始まる悲劇」に、ハッピーエンドはないのだろう。
ジョエルが「ああなった」時点でそう推察しながら、この物語を観ていた。
やがてそれは推察したとおり、エリーとアビーは、互いにたやすく仲間を失い、相手の仲間の命を、「いともカンタンに」散らせていった。
しかし、さすがに、
最後のあの「泥試合」は、
観ていてなんだか泣けてきたーー。
……アビーはこの物語での「最大のライバル」であり、最後のボスだ。
それだけあって、彼女はなかなか倒れない。
このゲームでは、敵のヒットポイントが数字や図など、直接的な表記を用いてあらわされてはいない。だから、あとどれほど殴れば、相手が倒れるのかがわからない。
あれほど、「早く終われ」と願った最終決戦もなかった。
たいていのゲームでは、単純にHPゲージを減らし、ラスボスを倒し、エンディングを観て、そこそこの満足感を得て、「あ〜楽しかった」と、ゲーム機のスイッチを切る(または電源を落とす)。
われわれが親しんできたゲームとは、その多くが、そのようなものであったはずだ。だというのに、われわれは一体、なにを見せられているのだ、と。
つい、そんなことを考えてしまった。
やがて決戦も終わり、その結末だけを見てみれば、驚くことに、エリーはアビーを「救いにいった」こととなったーー。
もしもエリーがアビーを「追わなければ」、アビーはあのままの状態で、レヴを連れて逃げだすことができただろうか。……そう考えることは、想像にかたくない。
この帰結も、なかなかに複雑であり、たいへん面白い。
ゆえに、【物語をシアトルで終わらせなかった『Naughty Dog』】は、じつに「秀逸であった」と思い返すのだ。
それぞれの最後に残ったもの
この物語で着目した要素は、主に次の三つ。
一つは、「復讐」。
一つは、「アビー」。
一つは、「ギター(音楽)」である。
「復讐」、「アビー」という要素は、いわずもがな、道徳観や倫理的な対立の提示であり、
くわえて、「ディーナとメル」という、わかりやすく似ていて、対比させて観ることのできる設定を持ちこんでいた。
このことも含め、プレイを終えた各々が、この物語を自身の実生活へと持ち帰り、それぞれが日常のなかで、ゆっくりと消化をしていくのだろう。
それに本作品は、昨今のできごと(2020年時点)を、みごとに反映しているように感じる。これもまた皮肉なことだが、この物語から、かたちにならないメッセージを受けとったプレイヤーも、実に多かったのではないだろうか。
さて、三つ目の「ギター(音楽)」の要素について。
ギターの出番は、プレイの内容次第で、登場回数がすくなかった人たちも、多くいたのかもしれない。
それでも、物語の要所々々において、エリーとジョエル、ディーナといった、登場人物たちとの関係性をあらわす「第二の言語」として、とても大切に扱われていた。
他方、今作、『The Last of Us PART2』では、「アビー」はエリーの「サブプロット・キャラクター」として描かれている。
「サブプロット・キャラクター」とは、主人公と同じような「悩み」や「障害」をかかえ、それをくらべてみせることで、主人公がかかえる「弱さ」や「ジレンマ」などを強調させる存在だ。そして最後には、主人公とは違った結末をあゆみ、物語をより深めていってくれる。
しかし、本作品のアビーにおいては、とてもながく「彼女専用のストーリー」が用意されていた。くわえて、実際に使用してプレイをさせていることもある。
このことから、「二人目の主人公」といった方が、彼女をあらわす言葉としては、適切なのかもしれない。
前作は、ジョエルとエリーの「バディ・ストーリー」だった。
しかし今作では、そのジョエルの命を奪った「アビー」が、エリーと対立する存在として、その座に着いたのである。
アビーは、エリーのサブプロット・キャラクターだ。それだけあって、アビーという存在は、「『サブプロット・キャラクター』に求められる、表現の役割」として、積極的に用いられている。
具体的には、主人公であるエリーとの「対比」が描かれ、アビーの周囲には、エリーと「類似する」さまざまな要素が、彼女の物語の随所に散りばめられた。
「ジョエル=ジェリー」(保護者、悲劇的な死)、
「ジャクソン=WLF」(子どもたち、多くの住人、秩序)、
「ディーナ=メル+オーウェン」(妊婦、好意をよせる相手)、
「ジェシー=マニー」(仲間、プレイ時に行動をともにする、一瞬で失う)、
などが、これにあたりそうだ。
とくに、アビー編、シアトル一日目が始まってすぐのころ。スタジアム中では、多くの子どもたちが「存在している」ことを、しっかりとプレイヤーに見せつけていた。このあたりなどは、なかなかにエグい表現をするものだなと、思わず笑ってしまったものだ。
決戦の後。
最後に残った、類似的かつ、対比的なモチーフが、「レヴ」と「ギター」だった。
これらのモチーフは、エリーとアビーにとって、明日に向かうために見つけた、「残された希望」だ。
ーーしかし残念ながら、「希望」とは、なにかに「依存すること」でもある。
自己の内側に「未来を描く」。その目的のため、なにかに頼り(もしくは、すがり)、「それ」または「それら」を利用する。
そのことを指して、われわれは「希望」と呼んでいるーー。
(もちろん、これは「ポジティブな意味」としてとらえられることも、一応ここで述べておく。)
「レヴ」という人間は、もちろん、「物理的な世界」に存在している。だがそれは、『The Last of Us』という世界においては、簡単に失いやすいものだ。つまりその分、この関係性は、常にもろく、常にあやうい。
一方でエリーは、その関係性を失ったあとではある。だが、彼女に残された希望は、ジョエルとの思い出を想起させる、「ギターの音色」である。
それは、たとえ指先が二本なかろうが、仮にギターの弦が何本かダメになっていようが、「あたまの中」では常に、理想的な音楽のまま、いつでも再生することができる。
そしてなによりも、「物理的な世界に存在していない」ということは、何者にも奪うことはできないということだ。
この一点において、エリーは、物理的な他者への「依存」から逃れることができたのである。
しかし、アビーの方はといえば、「父親」に対する依存から、それが父親の「復讐」へと変わり、その復讐を終えたあとも、「レヴ」という存在に、依存先を変えていく道をたどらされた。
この、ふたたび失う可能性のある、「不安定な希望」にとどまったアビーの結末は、「サブプロット・キャラクター」としての役割を見事に果たし、その任務を、立派に遂行した(させた)かのようにも見えるのだ。
アビーとの決戦も終え、この物語もエンディングへ。
二つの指先を失い、しかし、それに代わるなにかを得て、ジャクソンに帰ってきたエリーは、
すでにディーナが去った家へと帰り、自分の部屋に置いてあったギターケースから、「一本のギター」を持ちあげる。
足りない指先、奏できれないその音楽は、エリーにとっては、もう些細なことだーー。
ーーこのシーン、観るものに限っては、ツラく見えてしまう場面なのかもしれない。
しかし、ピタゴラスが見つけた、この「音楽」という魔法は、じつに不思議なものだ。メジャーコード(明るい和音)が一度空間に響くと、なぜかその場が「明るく」なる。
まちがいなく、あの殺伐とした世界を、そのままド直球に描いていただけでは、観る側も作る側も、精神が磨耗していっただけである。
登場人物をポンポンと殺してニヤついていられるのは、脚本家や監督ぐらいなものだ。
彼らは楽しみながら人を殺せるが、見せられる方は、たまったものではない。
すこし話はそれたが、このギターという音楽を通じて、プレイヤーにももたらされたこの「希望」は、この物語を最後まで表現するうえで、外すことのできない、大きな要素であったことは、まず間違いがない。
なによりも、この「希望」がなければ、ただ殺伐とした物語を見せられただけだった。
そして、この物語の帰結も、「すんなりとは収まらない」ようにできている。
われわれは、「音楽」という【残された希望】をひしと胸に抱きかかえ、宙に浮いた不安定な状態のまま、心しずかに、物語の終わりをむかえるのだーー。
『Wayfaring Stranger』
「Ashley Johnson (エリー役)」
and
「Troy Baker (ジョエル役)」
[00:35〜04:50]まで。
PlayStation® Experience 2017より。
おわりに
ゲームは、自分で操作をする。
能動的な行動を強制させ、操作することを通じて、キャラクターと感覚をともにする。
例は、すでに示したとおり。
襲いくる敵に鼓動は高まり、見つかりたくない場面では、自身も息をひそめる。
そのため、よりキャラクターに感情移入ができ、より深いところで、プレイヤーのなかに物語が作られていく。
他方、このゲーム『The Last of Us PART2』は、悲劇が重なるほどに、作品が意味を生んでいくタイプの物語でもある。
結果として、「没入した感情」と「物語の方向性」とを、「水」と「油」のように、混ざらないままにしておきたいと願うのは、しごく、当然のことだ。
前作のファンを含めたプレイヤーたちにとって、この現象こそが、この作品を受けいれることを、困難なものにさせている。
しかし、この物語を最後までふれたプレイヤーや観客にたいして、その、今まで積み重なった悲劇のぶんの、力強いメッセージが、わたしに、そして「あなたに」、届くことになるだろう。
「それ」は、答え合わせができるような、決まり切ったカタチで与えられるものなどでは、決してない。
「それ」は、この物語のなかから要求し、
自分の内側から湧きでる言葉や、言葉にならない「イメージ」や「感情」といった、有形無形の「なにか」から、
日々の時間を使って、ゆっくりと汲みとってゆくものなのだと考えている。
これだけの「道徳的対立」を引きだした『Naughty Dog』のストーリーテラーたちは、ただただ、「秀逸」の一言で、
脚本の教科書にのっているお手本のような、非常に完成度の高い、素晴らしい物語をわれわれに与えてくれた。
その感謝と敬意の念を持って、ここに筆をおくことにするーー。
2020/08/18
ーージョエルの生き様に、
「コーヒー」で乾杯。
あとがき
ーー以上が、「ストーリー分析から見る、この物語の感想」でした。
長々とお付き合いくださり、ありがとうございました。
スッキリされていなかった方にも、なにかスッキリできる「ヒント」があればと、願うしだいです。
その他ご感想や、ことなるご見識、ご意見などありましたら、ぜひコメント欄の方にもよろしくお願いいたします。
(誤字脱字等もありましたら、重ねてお願い申しあげます。)
(使わせていただいたイメージ画像は、『Pixabay』さんからのものです。
クレジット表記は「必要ない」との事ですが、たくさん使わせていただきました。ありがとうございました。)
内容がわかったあとで、再びプレイをすることは、ことこのゲームにおいては、すこし重たいかもしれません。ですが、動画などでまた観かえすのも、なかなか「乙なもの」です。
抑えどころのシーンなどを客観的に観て、作り手たちが「物語をどのように編んでいっているのか」。これらのことに、ぜひ思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
また、結末がわかっているからこそ楽しめる見方もあると、自分は考えております。
そのことを「かぐや姫理論」、と勝手に名付けてはおりますが……(笑)
「かぐや姫」が、月へ帰ってしまうとわかっているからこそ、『竹取物語』は、かくも美しいのです。
ーーたぶん。
それでは今回はこのあたりで。
あなたの人生にも、素晴らしいストーリーがありますようにーー。
この記事が面白いと思われた方。ぜひ「♡マーク」を押していってください。
(非会員の方も押せます。)
・ ・ ・
※[追加]の記事を投稿しました。
テーマは、「死生観」と「ジョエルの死」にみる『The Last of Us』の物語、です。
ーーご興味ありましたら、ぜひ。