[旧版]『The Last of Us PART2』 ストーリー分析と感想を。【ネタバレあり】
※この記事とは別に、「内容はそのまま」に、読みやすくなるよう、表現を大きく改変した記事があります。
はじめての方はそちらをご覧ください。
・ ・ ・
プレイを終えた、またはプレイ動画を見終えたけど、スッキリしていない。
そんな方にも向けて、「少しは気持ちに整理が付く」ような書き方になっていると思います。
※この記事には【ネタバレ】が「ふんだん」に盛り込まれております。まだ【クリア】をされてない方はご注意ください。
なお、これは『The Last of Us PART2』の「考察」ではなく、ストーリー分析的な見方からの、ただの【感想】です。
ちなみに自分はROM専です。
なので、プレイ動画を観終えて感じたことを「共有したいな」と思い、書き連ねてみました。
なんとなくですが、文体は硬めに書いてます。
執筆
2020/07/23〜
8/30 追加の記事を別記事にて投稿。(最下部にリンクあり。)
#ゲーム
#ストーリー分析
#感想
#コラム
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#ラストオブアス2
#ラスアス2
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はじめに
ーーこれは、「復讐」の物語。
雪の降り頻る山中。
ロッジの中で休む若者の集団。
うなされて目を覚ます、一人の少女。
その体つきを見れば、彼女がただの「か弱い乙女」などではないということが、よくわかるーー。
前作から「七年」。
『Naughty Dog』の制作陣は、累計1700万本というメガヒットを記録した『The Last of Us』の続編に、「アビーという視点」を持ってきた。
なぜ、私が「これ」に着目したのか。
それは、もしも「アビーの視点なしに」この物語を作った場合、プレイヤー、または観客たちには、どのようにこの物語が見えたのだろうか、と想像してみたからである。
「脚本の手法」において、第三者の視点を持ち出すときには、たいてい、とある「狙い」がある。
それは、「観客」に対し(ゲームの場合は、もちろん「プレイヤー」に対し)、
物語から、一歩引かせた視点を作り、
この物語を「客観的に見せたい」というときに、よく持ち出される「手法」のようだ。
つまり、このもっとも序盤のタイミングに、このような「第三者の視点を持ち出す」ということは、
「作品の全体」を通して観せるにあたり、
それだけ、没入して見させたくなかった理由があった、というわけだ。
くわえて、これは「映画」や「テレビドラマ」などではなく、
直接、別のキャラクターを操作する(させる)ことが可能な「ゲーム」である。
この手法をとることで、「客観」だったアビーを「主観」に変え、アビーの視座を作ったからこそ見えてくる、主人公であるエリーたちとは別の「視点」と「考え(思想)」を、明確に示すことに成功した。
さらに、この物語を、プレイヤー、あるいは観客たちに提供していく上で、後の「最大のテーマ」となっていくであろう、
我々プレイヤー側が、この物語から、一体どのような「道徳観」や「倫理観」を持ち帰るのか、という、「最大の材料」をも提供している。
ーーさて、気になるのは、なぜ彼らは「アビー」という強烈なキャラクターを作り出し、このような位置づけにしたのだろうか。
これについて、自分なりの「ストーリー分析」を交えた物語の見方と、
それらを含めた「感想」とを、これから述べていきたいのと同時に、
この、自分のただの独り言に対しても、
ぜひ少しの間、付き合っていってほしいとも願っているーー。
「アビー」という救い
前作をプレイしたプレイヤーたちにとって、「前作の主人公」というキャラクターは、
実際に使用してプレイをしていたこともあって、「もっとも親しみのあるキャラクター」となっていることに、異論はないだろう。
前作では、あなたとジョエルは文字通り、「一心同体」であったはずだ。
感染者に襲われれば、自らも「手に汗を握って」懸命に戦い、
敵対している人間を見つければ、自身も「息をひそめて」敵の背後へ、そーっと近づいて行ったであろう。
そして、今回の作品では、その「前作の主人公を殺す」という、「最強のカード」を切ってきている。
「バーチャルの空間上」ではあるが、
自身の身体感覚までを「それ」に重ね合わせ、
まさに、一心同体であった自分の片割れを、
これまでのときを共にし、もっとも親しみを感じていたキャラクターを、
もっとも衝撃をもらうカタチで、我々は「失う」のだ。
昨今のエンターテイメント作品は、基本的には「ハッピーエンド」だ。
客は、見ていてツライものに金なんか出さない。
作る側もそれがわかっているから、客を喜ばせて金を取る。
心をえぐったり、見たくないものをあえて見せるような「高尚な芸術作品」は、他所でやってくれってわけだ。
当然、主人公は死なないし、死んだとしても、英雄的な最後を迎えて、観終えた者たちを満足させてくれる。
そんな、「それがそこに在る」のが当たり前であったはずのものが、観る側の準備が何もできていない、虚をついた段階で、ほぼ前触れもなく、一瞬でなくなる。
ーーこれはまるで、「空気」のようだ。
なくなった途端、急に胸が苦しくなる。
コアでディープなファンであればあるほどに、その効果が「絶大であった」、ということは、賛否繚乱の嵐をみれば、言うまでもない。
そう、「エリーの視点だけ」だったら、とてもじゃないが、こんなものは耐えられない。
それほどまでに、シナリオライターたちは「凶悪なカード」を切った。
そこで私があらためて思ったことは、
「アビー」とは、シナリオライターたちが我々に用意してくれた、
この物語を最後まで観られるようにするための、【せめてもの救い】であったのではないか、ということだった。
そして皮肉にも、これによって「道徳的なメッセージ」も、よりいっそう強まる。
西洋的な脚本手法、ようは、「ハリウッド的物語」は、「道徳的な帰結」をもって、物語の幕引きを意識していると、私は感じている。
それはどうやら、一方的に押し付けるようなものであっては、いけないものらしい。
押し付けられた道徳や倫理観などは、説教臭くなるだけではなく、
さらには、物語の質までを奈落の底に突き落とし、あっというまに三流作品へと様変わりさせてしまうのだから。
最終的な物語の帰結、「道徳的対立」についての感想は、一番「オイシイ」ところなので、後述までにとっておこう。
ここからエンディングへ向けて、掻い摘んでではあるが、「ストーリー分析的な見方」から、物語を読み進めていく予定である。
それに、エンディング付近でこれを述べる方が、それだけ面白く、みなさんに提供することが出来るはずだーー。
四つの舞台、四つの対立軸
『The Last of Us PART2』というストーリーを観終えてみれば、
この物語は、過去という時間軸も含めて、「四つの舞台」から成り立っていることがわかる。
過去を表現することにおいては、物語をより楽しませるために用いられていることがわかるので、今回は分析する要素からは、外させてもらう。
さて、「現在」という時間軸の中で、プレイヤーがプレイする主なフィールドは、あらためて次の三つ。
「ジャクソン」
「シアトル」
「サンタバーバラ」である。
最近のハリウッド的ストーリー・テリングでは、ライバル関係にある個人や組織を「四つ」揃え、「四つの対立軸」から物語を構成していくのが流行のようだ。
つまり、この作品もその例外ではない。
ジャクソンでは、エリーも含めた「街の住民たち」、「感染者」、アビーを中心とした「旧ファイアフライの復讐者たち」と、「三つの対立軸」が用意され、
物語の序盤だけあって、物語においては、あまり負荷のかからない対立構造である。
シアトルでは、エリーを含めた「ジャクソンの復讐者たち」、「感染者」、「WLF」、「スカー(セラファイト)」と、綺麗に「四つの対立軸」が用意されており、
それぞれが互いを睨み合い、物語に深みを持たせている。
同じように、サンタバーバラでも、「エリー」、「アビー」、「感染者」、「ラトラーズ」と、「四つの対立軸」を用いて、シアトルと同様の形を生み出し、
さらなる緊張感と複雑な物語を作ることに成功していた。
この三つの「舞台設定」からは、次の「対比」が敷かれている。
ジャクソンでは、もちろん、それなりの規律が存在するようだが、街の中の風景は、どこか田舎の風景が持っている、のびやかな「自由」がそこにはある。
他方、シアトルのWLFでは、ジャクソンにくらべ、「より規律を重んじさせる環境」が作られている。
都会にある高い建物が空を覆っている風景に、スタジアムの中という住環境の狭さもくわわり、「窮屈さ」が演出されているように感じられる。
そして、サンタバーバラでは、奴隷の扱いを受ける人々がおり、この物語の「決戦の地」として用意され、極限まで「抑圧」された土地として演出されている。
このような特徴を踏まえつつ、続きを読み進めていただきたい。
物語をシアトルで終わらせなかった『Naughty Dog』
途中、私が観ていて思ったことは、この物語の終わりを、シアトルで描くものだと思っていたことだった。
だが、『Naughty Dog』のストーリー・テラーたちは、シアトルで物語を終わらせなかった。
もちろん、シアトルの地で物語を終わらせることは、充分にできたはずだ。
具体的にいえば、シアトルで、エリーがアビーを「殺す」のか。
それとも、エリーはアビーを「許す」のか。
アビーからエリーに戻り、二つの選択を迫るように仕向ければ、道徳的帰結も提示することができよう。
それに、ここに至るまででも、道徳的な提示は、充分に見せることができているのではと、「エンターテイメント感覚」では、つい、そう思えてしまう。
だからこそそうすれば、そこで晴れて、無事に「エンディング」を迎えられたのではないか、こう思ってしまったわけだ。
ーーだが、驚くべきことに、彼らは、そうはさせなかったのだ。
シアトルでは、アビーからエリーにはスイッチをさせず、
「アビーで」エリーを倒させて、
「アビーが」エリーを、「許す」形にしたのだ。
……ここで少し考えてみて欲しい。
これは、とても理不尽に思える話だ。
エリー編を引きずり、エリーからの目線で物語を捉えようとしてしまっていれば、次のようにも捉えられる。
ジョエルを殺した彼女の方が、「先に」エリーを許した。
ーーこのように見えるのだ。
ストーリーの流れの中では、彼女にとって、「レヴ」という存在がいたことも大きかっただろう。
しかし、これまでを共にしてきた仲間たちや、好きだったオーウェンを失っても、
アビーは、エリーを「許す」のだ。
前作のファンからすれば、この辺りは、もう、頭の中が滅茶苦茶なことになっていたことだろう。
当然、前作のファンやエリー編をプレイした人間ならば、エリーの視点から物語を追っていきたいと願うはずだ。
だというのに、一度感情移入をさせたエリーという人物から視点を引き剥がして、
復讐するために追っていたアビーという人物に、強制的にプレイを移させ、
エリーから見れば、復讐したかった人物を使って、エリーを倒すべき相手とし、
コントローラーを用いて、能動的にそれを強いる。
キレイな右ストレートが、エリーの左頬を捉えるあの画は、まさに「強烈」の一言で、
これまでの悲劇にくわえ、さらなる追い討ちを掛けるように、
ファンたちの複雑な感情とともに、エリーの頬骨もろとも、鮮やかに打ち砕いていったことであろう。
シアトルでの敗北の後、一方的に許されたエリーは、ジャクソンに帰る。
ジャクソンでの生活に戻っても、ディーナと赤ん坊がそばにいても、
あの日、ジョエルを失った出来事は、まるで亡霊のように、彼女の頭の中にベッタリと張り付いている。
彼女の時間は、いまだ「止まった」ままなのだ。
そこへ、トミーがやってきて、
エリーは「未来」を生きるディーナと赤ん坊の元を去り、自分の「過去」へと帰っていく。
(何故トミーをシアトルで殺さなかったのか、少々疑問に思っていた。しかし、トミーがアビーの居場所を話し始めたとき、「ああ、このためだったのか」と思ってしまったのは、内緒のお話。)
そして、物語の舞台は決戦の地、「サンタバーバラ」へ。
話は少し逸れるが、エリーがアビーの追跡中、ラトラーズの罠にかかり、脇腹に重傷を負った件について。
あれは少々強引だったのではないか、と少し脳裏を過ぎった。
だが、元気なエリーが、弱ったアビーを一方的に殴り、エリーの感情を下手に狂わせるシーンで、終わりとしたくなかったのだろう。
この物語は、感情を見せるコントロールを、丁寧に計算していると思う。
なので、この点については、一度、目を瞑って、物語を楽しんで観てもいいのではないかと思っている。
なぜなら、二人の最後の対決は、最高に複雑な場面に仕上がっていたと思うからだ。
最後の戦い。
彩度が奪われた、泥水のような浅瀬。
エリーは、小舟に横たわるレヴの喉元に「ナイフ」を突きつけ、もはや戦意のないアビーに、「戦え」と促すーー。
つまらない言葉でこの物語を紡いでみれば、これは、エリーとアビーの「泥試合」。
「復讐から始まる悲劇」に、ハッピーエンドはないのだろう。
ジョエルが「ああなった」時点でそう思いながら、この物語を観ていた。
やがてそれは思った通りに、
エリーとアビーは、互いに容易く仲間を失い、
互いに相手の仲間の命を、「いとも簡単に」散らせていった。
しかし流石に、
最後のあの「泥試合」は、
観ていてなんだか泣けてきた。
……アビーはこの物語での「最大のライバル」であり、最後のボスだ。
それだけあって、彼女はなかなか倒れない。
このゲームでは、敵のヒットポイントが数字や図など、直接的な表記を用いて表されてはいない。
だから、あとどれほど殴れば、相手が倒れるのかがわからない。
……あれほど、「早く終われ」と願った最終決戦もなかった。
たいていのゲームでは、単純にHPゲージを減らし、ラスボスを倒し、エンディングを観て、そこそこの満足感を得て、「あ〜楽しかった」と、ゲーム機のスイッチを切る。
我々が親しんできたゲームとは、その多くが、そのようなものであったはずだ。
だというのに、我々は一体、何を見せられているのだ、と。
つい、そんなことを考えてしまった。
ーーやがて決戦も終わり、その結末だけを見てみれば、
驚くことに、エリーはアビーを「救いにいった」こととなった。
もしも、エリーがアビーを「追わなければ」、アビーはあのままの状態で、レヴを連れて逃げ出すことができただろうか、と私は想像したのである。
この帰結も、なかなかに複雑であり、大変面白い。
ゆえに、【物語をシアトルで終わらせなかった『Naughty Dog』】は、
実に「秀逸であった」と、私は思うのだ。
それぞれの最後に残ったもの
私がこの物語で着目した要素は、主に次の三つ。
一つは、「復讐」。
一つは、「アビー」。
一つは、「ギター(音楽)」である。
「復讐」、「アビー」という要素は、言わずもがな、道徳や倫理的な対立の提示であり、
くわえて、「ディーナとメル」という、わかりやすく似ていて、対比させて観ることのできるような設定を持ってきたことも含め、
プレイを終えた各々が、そこから自身の実生活に持ち帰り、それぞれが日常の中で消化をしていくものだろう。
これもまた皮肉なことだが、昨今の出来事(2020年時点)を見事に反映していることもあり、
この物語から、形にならないメッセージを受け取ったプレイヤーは、実に多かったはずだ。
ーーさて、三つ目の「ギター(音楽)」の要素について。
ギターの出番は、プレイの内容次第では、登場回数が少なかった人たちも多くいたとは思う。
もちろん、それでも物語の要所々々で、エリーやジョエル、その他登場人物たちとの関係を表す「第二の言語」として、とても大切に扱われていた。
今作、『The Last of Us PART2』では、「アビー」はエリーの「サブプロット・キャラクター」として描かれている。
「サブプロット・キャラクター」とは、主人公と同じような悩みや障害を抱え、それをくらべてみせることで、主人公が抱える「弱さ」や「ジレンマ」などを強調させる存在であり、最後には、主人公とは違った結末を歩んで、物語をより深めていってくれる。
だが、今作品のアビーにおいては、とても長く、彼女専用のストーリーが用意され、かつ、使用してプレイをさせていることもあり、
実質的には、サブプロット・キャラクターというよりも、「二人目の主人公」と言った方が適切であるのだろう。
前作は、ジョエルとエリーの「バディ・ストーリー」だった。
しかし今作では、そのジョエルの命を奪ったアビーが、エリーと対立する存在として、その座に着いたのである。
アビーは、エリーのサブプロット・キャラクターだけあって、アビーの存在は「サブプロット・キャラクターに求められる、表現の役割」として用いられている。
具体的には、主人公であるエリーとの「対比」を描くため、アビーの周囲には、エリーと「類似する」さまざまな要素が、彼女の物語の随所に散りばめられている。
「ジョエル=ジェリー」(保護者、悲劇的な死)、
「ジャクソン=WLF」(子供たち、多くの住人、秩序)、
「ディーナ=メル+オーウェン」(妊婦、好意を寄せる相手)、
「ジェシー=マニー」(仲間、プレイ時に行動を共にする、一瞬で失う)、
などが、これにあたりそうだ。
特に、アビー編、シアトル一日目が始まってすぐ、多くの子供たちがいることをプレイヤーに見せつけているあたり、
なかなかにエグいことをするものだなと、思わず笑ってしまったものだ。
決戦の後。
二人に残った、類似的かつ、対比的なモチーフが、「レヴ」と「ギター」だった。
これらのモチーフは、エリーとアビーにとって、明日に向かうために見つけた、「残された希望」だ。
たが残念ながら、「希望」とは、なにかに「依存すること」なのである。
自己の内側に未来を描くため、なにかに頼り(縋り)、「それ」または「それら」を利用することを指して、「希望」とする。
物理的な世界に存在する「レヴ」の方が、『The Last of Us』という世界において、
簡単に失いやすく、その分関係性は、常に脆く、危ういものだろう。
一方、エリーは、その関係性を失ったあとではあるが、
ジョエルとの思い出を想起させる、「ギターの音色」という残された希望は、
たとえ指先が二本なかろうが、仮に弦が何本かダメになっていようが、
頭の中では理想的な音楽のまま、いつでも再生することができる。
そしてなによりも、物質的な世界に存在しないということは、「何者にも奪うことはできない」ということでもある。
この一点において、エリーは、物理的な他者への依存から逃れ、
アビーは「父親」に対する依存から、それが父親の「復讐」へと変わり、
その復讐を終えたあとも、「レヴ」という存在に依存先を変え、
それさえも失う可能性がある「不安定な希望」を持つ、という、
「サブプロット・キャラクター」としての任務を、立派に遂行した(させた)かのようにも思える。
アビーとの決戦も終え、この物語もエンディングへ。
二つの指先を失い、しかし、それに代わるなにかを得て、ジャクソンに帰ってきたエリーは、
すでにディーナが去った家へと帰り、自分の部屋に置いてあったギターケースから、一本のギターを持ち上げる。
足りない指先、奏できれないその音楽は、エリーにとっては、もう些細なことだーー。
ーーこのシーン、観る者に限っては、ツラく見えてしまう場面なのかもしれない。
しかし、ピタゴラスが見つけた、この「音楽」という魔法は、実に不思議なもので、
メジャーコード(明るい和音)が一度空間に響くと、何故かその場が「明るく」なる。
間違いなく、あの殺伐とした世界を、そのままド直球に描いていただけでは、観る方も作る方も、精神が磨耗していただけである。
登場人物をポンポンと殺してニヤついていられるのは、脚本家や監督ぐらいなものだ。
彼らは楽しみながら人を殺せるが、見せられる方は堪ったものではない。
少し話は逸れたが、このギターという音楽を通じて、プレイヤーにもたらされたこの「希望」は、
この物語を最後まで表現する上で、外すことのできない、大きな要素であったということは、まず間違いがない。
なによりも、この「希望」がなければ、ただ殺伐とした物語を見せられただけだった。
そして、この物語の帰結も、すんなりとは収まらないようにできている。
我々は、「音楽」という【残された希望】をひしと胸に抱き抱え、宙に浮いた不安定な状態のまま、心静かに、物語の終わりを迎えるのだーー。
おわりに
ゲームは、自分で操作をする。
能動的な行動を強制させ、操作することを通じて、キャラクターと感覚を共にする。
例は、すでに示した通り。
襲いくる敵に鼓動は高まり、見つかりたくない場面では、自身も息を潜める。
そのため、よりキャラクターに感情移入ができ、より深いところで、プレイヤーの中に物語が作られていく。
他方、このゲーム『The Last of Us PART2』は、悲劇が重なるほどに、作品が意味を生んでいくタイプの物語でもある。
結果として、「没入した感情」と「物語の方向性」を、「水」と「油」のように、混ざらないままにしておきたいと願うのは、至極、当然のことだ。
前作のファンを含めたプレイヤーたちにとって、この現象こそが、この作品を受け入れることを、困難なものにさせている。
しかし、この物語を最後まで触れたプレイヤーに対して、その、今まで積み重なった悲劇の分の、力強いメッセージが我々に届くことだろう。
それは、答え合わせができるような、決まり切った形で与えられるものなどでは、決してない。
それは、この物語の中から要求し、
自分の内側から湧き出る言葉や、言葉にならない「イメージ」や「感情」といった、有形無形の何かから、
日々の時間を使って、ゆっくりと汲み取ってゆくものなのだと、私は思う。
これだけの「道徳的対立」を引き出した『Naughty Dog』のストーリーテラーたちは、
只々、「秀逸」の一言で、
脚本の教科書に載っているお手本のような、非常に完成度の高い、素晴らしい物語を我々に与えてくれた。
その感謝と敬意の念を持って、ここに筆を置くことにするーー。
2020/08/18
ーージョエルの生き様に、「コーヒー」で乾杯。
あとがき
ーー以上が、「ストーリー分析も少し交えての感想」になります。
長々とお付き合いくださり、ありがとうございました。
その他ご感想や、異なるご見識、ご意見などあれば、ぜひコメントの方もよろしくお願いいたします。
(誤字脱字等もありましたら、重ねてお願い申し上げます。)
(使わせていただいたイメージ画像は、『Pixabay』さんからのものです。
クレジット表記は「必要ない」との事ですが、たくさん使わせていただきました。ありがとうございました。)
内容がわかった後で、再びプレイをすることは、ことこのゲームにおいては、少し重たいかもしれませんが、
動画などでまた観かえすのも、なかなか乙なものだと思います。
抑えどころのシーンやらを客観的に観て、
作り手たちが、物語をどのように編んで行っているのかということに、ぜひ思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
また、結末がわかっているからこそ楽しめる見方もあると、私は思っております。
自分ではそのことを「かぐや姫理論」、と勝手に名付けてはおりますが……(笑)
「かぐや姫」が、月へ帰ってしまうとわかっているからこそ、『竹取物語』は、かくも美しいのです。
ーーたぶん。
それでは今回はこの辺で。
皆さんにも、良きストーリーライフがありますようにーー。
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※[追加]の記事を投稿しました。
テーマは、「死生観」と「ジョエルの死」にみる『The Last of Us』の物語。です。
ご興味ありましたら、ぜひ。
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