連載小説『ヒゲとナプキン』 #29
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父の謝罪にたまらず家を飛び出したイツキに、群馬特有の「赤城おろし」が強く吹きつけた。頬を切り裂くような冷たい風が心の隙間からも体内に流れ込んでくるようで、イツキはひとつ身震いするとコートの襟を立てた。つい数時間前まで真上にあった太陽はずいぶんと傾いていて、街全体をオレンジ色に染め始めていた。
席を立つ口実として「ちょっと電話してくる」と言ったものの、特に誰かに電話をする用事はなかった。サトカの声が聞きたいとも思ったが、彼女もこの正月は実家に帰っている。一家団欒のときを妨げるのも気が引けた。
ポケットに手を突っ込むと、スマホに手が触れた。何気なく取り出してみると、メッセージを知らせる通知が届いている。サトカからだった。
「時間あるとき電話ちょうだい!」
実家で何かあったのだろうか。イツキは白い息を吐き出しながら、サトカへの通話ボタンをタップした。
「もしもし。あ、サトカ? うん、俺だけど。どうした、何かあった?」
「ごめんね、電話させちゃって……ご両親とお話し中とかじゃなかった?」
「うん、だいじょうぶだよ」
からっ風が吹くたび、イツキは小柄な身体を一段と縮こませた。ゆっくりと沈んでいく夕陽が正面に回り込み、不機嫌そうなヒゲ面を照らし出していた。
「あのね、両親に話したの」
「うん……どうだった?」
「それが意外な反応で」
「えっ」
「今度、あらためて連れてきなさいって」
「えっ……それって」
「うん、私ももっと反対されると思ってたんだけど……なんか拍子抜けしちゃった」
イツキはサトカの言葉を耳にしながら、新宿駅近くのカフェでサトカの両親と交わした会話を思い出していた。
「もしもあの子の幸せを願うなら、身を引いていただけませんでしょうか」
その言葉を思い返すと、スマホを握りしめる手に思わず力が入った。
「ねえ、イツキ。ねえってば……聞いてる?」
「あ、ごめん」
「やっぱり、私が子どもを生むっていうことで、少し安心したみたい。それは親として孫の顔が見れるというのもそうだし、ほら……うちの旅館的にもさ」
「うん、よかった……」
イツキは白い息とともに吐き出した言葉が、本心とはわずかな乖離があることを感じていた。
「イツキのほうは……どう?」
「あ、うん」
「ご両親には、これから?」
「だね」
「そっか……頑張ってね」
「うん、ありがと」
電話を切った。両手をポケットに突っ込み、アスファルトを見つめながら歩き続けた。このタイミングで電話をかけたことを、少しだけ後悔した。いつしか夕陽は見えなくなっていて、東京よりうんと広い空は美しい茜色に染まっていた。
「あっ……」
思わず声が出た。イツキが子どもの頃によく遊んでいた児童公園に出くわした。近所の公園にはあまり遊具がなく、どうしても物足りなさを感じていた。だから休日になると父にせがんで、自宅から少し離れた大きな公園まで連れてきてもらっていたのだ。当時はもっと家から遠くにあるイメージでいたが、何のことはない。歩いて十五分ほどの距離だった。
人影の見えない夕暮れの公園に足を踏み入れた。すっかり葉を落とした木々に囲まれた園内をゆっくりと見回すと、息が止まるほどに幼少期の思い出があふれ出た。ふと右側に視線をやった。そこに父がいないことに、どこか不自然さを感じた。
両手をポケットに入れたまま、冷え切ったベンチに腰を下ろした。茜色だった空は早くもその色を変化させていて、うっすらと群青色に染まりはじめていた。そっと目を閉じると、どうしてもさっきまで目の前で頭を下げていた父の姿が思い出された。
どうして理解してくれないのだ——。
八年間、ずっと苛立っていた。だが、両親が語った言葉によれば、父は理解に努めてくれていた。その事実を知らず、イツキはずっと苦しんできた。そのことが、余計に腹立たしかった。
目を開けると、そこには三台のブランコがあった。イツキはこのブランコに乗りたくて、この公園まで連れてきてもらっていた。いっそ空まで飛んでいけたらいいのにと思いきり漕いでいたが、母からは「危ないからやめなさい」と止められた。それからは、傍らで微笑みながら見守ってくれる父を付き添いに選んでいた。
イツキは立ち上がってブランコまで近づいていった。鎖に手をかけ、そっと右足を乗せてみる。揺れに合わせて、ぐいと力を入れると、左足も板の上にあった。イツキは両手で鎖を握りしめると、しばらく心地よい揺れに身を委ねることにした。
どうして理解してくれないのだ——。
父は「無知だったのだ」と釈明した。振り返ってみれば、八年前のこの町に、まだ「LGBT」という言葉は届いていなかった。イツキだって当事者だからこそ必死にネットで調べたが、そうでなければ、いつ「LGBT」と呼ばれる人々と出会うことができていたのかはわからない。同性愛とトランスジェンダーの違いなど、ひょっとしたら現時点でさえ理解できてなかったかもしれない。当時、五十歳だった父親が、何の前触れもなく、何の予備知識もなく、いきなり娘から「息子なのだ」と告げられたその心情に、イツキは初めて思いを馳せた。
どうして理解してくれないのだ——。
この八年間、ずっと腹の底に沈めてきたはずの感情を、なぜだか正確に再現することができずに戸惑った。その怒りと入れ替わるように、向き合いたくもない問いが、ぼんやりと腹の底にあることに気づかされた。
俺は、親父をどれだけ理解できていたのだろう——。
ずっと扉は閉ざされていた。少なくとも、イツキはそう思っていた。たしかに “未知との遭遇”にショックを受けた父は、当初こそ固く扉を閉ざしていたのだろう。だが、いつからか、その扉は開いていた。父は、イツキを息子として受け入れる準備を整えてくれていた。この八年間、ずっと父に背を向けてきたイツキには、それがわからなかったのだ。
ブランコの揺れは、いつの間にか大きなものになっていた。鉄鎖の軋む音が、夕暮れの公園に無機質に響く。イツキは、足元にさらに力を込めた。
「お父さん、ほら見てよ」
「すごいなあ、イツキ」
傍らで微笑むシゲルの声が、二十年ぶりに聞こえてくるようだった。
ポンッ——。
手を離すと同時に足元の板を勢いよく蹴ったイツキは、数メートル先の地面に着地した。一度だけブランコのほうを振り返ると、すっかり群青色に染まった街を、両親の待つ家に向かってふたたび歩き出した。
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