病気になるとはどのようなことか〜<医>の概念工学〜(2):確率とリスクをどうとらえるか

【がん治療選択の旅】


「がんと言われたとき何を考えるか」(前回note)について思いを巡らせていると、次にやってくることは「そのがんをどうするか」ということです。がんの宣告を受けたのと同時に治療法についての探索の旅が始まりました。

胸腺がんの病期分類は,通常の悪性腫瘍とやや違う正岡分類というのものです。私の場合はいちおうII期(周囲の脂肪組織浸潤まで)とされました。しかし病理医のコメント欄に「悪性細胞は,限りなく切除された脂肪組織の断端まで認められている」とありました。断端陽性,つまりまだがん細胞は私の体の中に残っている可能性が大きかったのです。そうであれば「不完全切除」ということになります。

不完全切除の場合,放射線療法か,放射線療法+化学療法(抗がん剤)を選ぶか,または何もしないかの選択肢があります。

まずネットで論文とガイドラインの情報収集です。いろいろ当たるとその当時のガイドラインでは不完全切除例の放射線治療は勧められていましたが,抗がん剤を勧めるまでの明確な記述はありませんでした。また論文も入手できる限り調べましたが,肺がんについては多数の論文がありましたが,胸腺がんについてはとにかく希少疾患(人口10万人あたり0.44-0.68人)のため,論文が大変少なくはっきりした方向性を与えてくれるものはありませんでした。

主治医の先生も、エビデンスが少なく選択肢がたくさんある中,「すぐには一つに決められないので,少し考えて決めましょう」と言ってくださいました。すぐに決めなくていいという安堵感と,でも早く決めないと,しかも自分で決めないとという焦燥感/孤立感が同時に襲いました。

ほんとに不完全切除だったのか、そこも疑ってしまったため,病理の先生に非常なご無理を言って顕微鏡で自分のがん標本を見せてもらいました。病理学には素人な私でも、断端のほぼギリギリまでがん細胞が広がっているのがわかりました。このときは心のなかでおもりが深く沈んでいくような錯覚に襲われました。

その後、私は放射線療法を始めるべきぎりぎりの時間まで、それこそいろいろな人に会い、いろいろなところに行き少しでも最善な方法を見つけるべく奔走しました。

同級生のがん化学療法の専門家や,旧知の循環器内科医師から紹介された呼吸器外科医にもメールや実際に面会しで何度もやり取りしました。またセカンドオピニオンとして東京の大きな病院に出かけて,お話を伺ったこともありました。

そのようにさまざまな専門家の意見を貪るように聞いていきましたが,それでもやはり,結論としては「エビデンスが少ないので,どちらが良いということは言えない」ということでした。

この間,心の拠り所となったのはやはり家族でした。半ば狂ったように(とハタからは見えたのかもしれません)毎日情報を収集したり、人と会ったりして少しでも最善の方法を見つけようと奔走している中、傍にいて見守ってくれていたのはやはり家族です。家族のサポートがなければ 、この「治療選択の旅」は到底立ち行かなかっただろうと、これは今でも痛切に思うことです。本当に家族には心底いつまでもありがとうと言いたいです。

またこの間、数分から10分くらい左手の感覚が全くなくなることを何回か自覚するようになりました。朝方仕事をしようとパソコンをONにした時とか、日常の何気ない時にその無感覚は訪れました。「これは脳への転移の可能性がある」と言う考えが頭から離れなくなってしまい、脳のMRIも受け、信頼する神経内科医にも意見を求めました。

【EBMの限界】


さて、このようにそれこそ右往左往を重ねて、結局化学療法は受けずに放射線治療だけと言う選択をしたのですが、このとき、医療において「意思を決定する」とはどのようなことか、さまざまなことを考えさせられました。まず私たち医師がその1番のよりどころとしているもの。そう、エビデンス(科学的証拠)と確率に関する問いです。

エビデンスに基づいて何からの治療法を選ぶという場合、ほとんどが過去のデータの集積=エビデンスを基に、ある治療法A,B,C,,,についてそれぞれのリスクとベネフィット(利益)の比較を行います。通常リスクとベネフィットは確率の形で提示されます。この治療法を行えば、行わなかった場合(あるいは他の治療法)に比べて何%多くの人が救われるかあるいは症状が改善するか。そうした治療効果と有害事象の程度を比べることによってどの治療法が良いのかを判断するわけです。

よくある誤解は、エビデンスからみて良い治療とされれば、必ず(100%)効果があるとの考えです。しかし実際エビデンス的に「効果がある」というのはそれが絶対に効くとはいえない、つまり治療すれば必ず効果があるということではないのです。図1は、心房細動不整脈の一種。脳梗塞のリスクになると言われています。私の一応専門分野なので取り上げます)の患者さんが脳梗塞になる頻度を、抗凝固薬という血液をサラサラにする薬を飲んだ時と飲まない時とで比べたものです(Mayo Clinicの抗凝固薬選択Decision Aid:図中の頻度は私自身のデータを入力した結果です)。

例えば100人の心房細動(患者がいる場合、薬を飲まない時(左)はこれから5年の間に死亡または重い脳梗塞になる頻度は6人(紫)で、軽い脳梗塞は11人(黄色)ですが、薬を飲むと(右)それぞれ1人、4人しか発症しません。それぞれ差し引き5人および7人に薬の効果があるということになります。図で水色に表示されているのが効果があった人です。これを患者さんに見せると、まず緑色の人、つまり薬を飲む飲まないにかかわらず健康な人が圧倒的に多いことに多くの人が驚きます。

図1.メイヨクリニック「抗凝固薬選択」のDecision Aid

一方、病気になった身としては、紫の人が6人から1人に減ることが一応、大切です。しかしそれでも1人の人は治療していてさえも、脳梗塞になっています。さらにここには表示されませんが、通常100人に1−2人が重大な脳出血という有害事象を起こすことがわかっています。たとえ薬を飲んだとしてもやはり脳梗塞になってしまう、そればかりか重大な有害事象もゼロでは無い。

医学的なエビデンスとは、このようにリスクとベネフィットを確率(この図の場合は頻度)で表します。何%の確率で効くかもしれないし、害があるかもしれない。このことはあくまで集団の全体に関わる傾向を表しているに過ぎません。ある一人の人が効果のある群に入るかのか、効果がない群に入るのか、全く関係のない群に入るのか、はたまた有害事象をきたしてしまうのか、それについては何の説明もありません。

これらはいわゆるEBM(Evidenceーbased medicine)の限界として、従来から語り尽くされてきたことです。EBM、ひいてはいわゆる確率因果とは「全称因果」であり、ある特定の個人に起こるイベントに関する一回ことの生成については説明できないとされています。いわゆる「単称因果」を説明することはできません。それでもEBMは、人間は全く無秩序な世界を生きるのではなく、集団ではある(確率的な)法則性を持った振る舞いを持つ、そのような仕方で治療法の効果が表現されるという点において、有意義であることに疑いはありません。

とは言っても、病気の当事者としては、EBMが個人の未来までを絶対的に保証してくれないというまさにその点において、深刻な孤独感を味わうことになります。胸腺がんの場合はエビデンスは大変少ないのですが、完全切除(取り切れた)の場合は生存率は28%上昇するとされています1)。しかし繰り返しますが,この病気になった人のうちの単なる割合を表す数字であっって,病気の当事者から見れば、自分がその28%の方に入るのか、それとも効果なくやはり死亡してしまうのか2つに一つしかない。どんなに小さな確率(28%の相対リスクの差は莫大に差があるとは言えませんが)のできごとでも起きてしまえば完全に起きてしまう。
文献1)Jackson MW et al. The Impact of Postoperative Radiotherapy for Thymoma and Thymic Carcinoma. J Thorac Oncol. 2017 Apr;12(4):734-744

起こるまでは確率という不確実な形でしかものが言えないのに,起きてしまったら完全に確実に起きてしまう。この「これまで」と「これから」の裂け目を前に私は立ちすくんだのです。みんな「不確実性を受け止めよ」「不確実性に耐えよ」と知ったようなフリで言うけれど(私もそう言ってきました),いざ自分がそうなったらそんなに強くなれない。起きることは起きる。そのことそのものの根拠をEBMは何も説明してくれない。その寄る辺なさ・・・

こうなると前回見たように,不確実性などに立ち向かわず,全ては決定されていることと割り切ったほうがよほど楽です。一方で治療の効果があるのか,ないのか,全ては偶然に左右されると考えることも極めて自然でしょう。不確実性に耐えること,それは世界が全て偶然であることを受け止めること。

患者さんには,あれほどエビデンスを信じて勧めてきたのに,いざ自分が病気になったら,すべて決まっていることだよと達観めいた思いになったり,はたまた全ては偶然なのだと諦念に身を染めたり。その間を無数に往復する自分に気が付きます。

偶然と必然。この2つのサイドの間で右往左往する自分そのものに翻弄され立ちすくむのです。

【確率、リスクの概念を再考する】


偶然と必然。このことを考えに考え抜いた戦前の哲学者に九鬼周造がいます。九鬼は著書「偶然性の問題」の中で,

「偶然性は科学の原理的与件になることはできても、まさに偶然性そのものによって、科学には対象として取り扱えないという根源的性格を有ったものである」

九鬼周造「偶然性の問題」

と言い切っています。偶然性がまだ科学的に解明できていないだけだとするのではなく、根本的に解明できないものなのだと言っているのです。

九鬼の指摘に触発されて、ここに至って、もう一度、「確率」とは、そして「リスク」とは何かについて、根源的に考えてみることにします。
それは当初からこだわっているように、事物を、あるいは世界をどう捉えるかという大問題に関わります。医療の話に何もそこまでと思われるかもしれませんが、病気に向かい合うということは、すなわち世界を(そして人間を)どんな視点から捉えるのかに関わってくると思うのです。

この世の中を、この世界をどうみるか、それこそさまざまな視点があると思いますが、私ががんになって特にこだわるようになったのが、そしてあまたの哲学/思想家、特に現代思想の領域で常に取り上げられるのが、

A)この世界は互いに「異なるもの」の「一回限り」の事象のあつまりである
B)この世界は「同一なもの」の「繰り返し」である

という決して交わることのない2つの視点です。

通常、私たちの日常生活は、大体において毎日同じことの繰り返しであり、またそのことに大した疑問を持たずに、すなわちB)の世界において人々は安寧に暮らしています。また科学と呼ばれるものの営みも、今見てきたように、病気を含めた自然現象を同一の性質や法則を持ったものの集まりとしてカテゴリー化した上で、それらの差異について検討するというB)の概念を基本原理としています。そうすることで世界が説明しやすくなり,予測や制御か可能となると信じられています。

しかし,例えば毎日の通勤のこと一つとってもそれがB)の世界ではなくA)の世界に根を張るものであることがわかります。私は毎日自宅から歩いて数分の職場に通っていますが,家から出て職場に着くまでに,たとえばどの足から歩き始めるとか,足や手の動かし具合とか,歩幅とか,靴のフィット感とか,引いていはその時挨拶した人とか,誰かとぶつかったとか,その他もろもろのすべての事がらは毎回毎回異なるものであり,一回限りのはずです。

フランスの哲学者,ジル・ドゥルーズは,著書「差異と反復」の中で,例えば四時の鐘が鳴っているとき,どの一打も,どの振動あるいは刺激も,論理的には独立しており,単に一回ずつ鳴っているに過ぎない。私たちは4つの音を反復されたものとして,「四時」としてまとめあげ,再生,反省,量化可能なものと仕立て上げることができるのである,と指摘しています。

すべての出来事は一回きりの唯一のものである。私たちの世界が巻き戻し再生と編集の効かない時間の流れにある限り,同じものは決して生じえない。しかしながらすべての事象をそのように捉えていたのでは,世界を理解することも,他者に説明することもできません。そこで一回限りのことであっても「通勤する」「四時」というカテゴリーにくくっているわけです。そして通常はB)の世界にとどまって安定を得ているわけです。

しかしながら、がんなどのように、自分の存在に関わってくるような極めて重大な事態に接したときはどうでしょう。そのとき、A)の世界がこの身に重しのようにのしかかってくる。この「がん」というのはこの私に起きた一回限りの取り替えることのできない事象である事が、心底わかってくるのです。そして実はA)の世界観の方が、より根源的なものの捉え方であるということも。

このように同一性と差異の両者の間の振幅として世界を捉える視点は、どちらの世界により力点を置くかで立場は異なるものの、ドゥルーズやジャック・デリダをはじめとする現代思想の大きな潮流であると言われています。また前回取り上げた中島義道さんの著書「後悔と自責の哲学」ではこの2つの世界を明確に相容れないものと峻別し、「ほとんどの人はA)とB)の間を揺らぎながら生き、そして死んでいく」と見切っています(A)とB)の定義の仕方も同著書になぞっています)。

確かに例えば、一口に「がん」といってもそこにはさまざまなタイプのものがある。がん細胞の種類,がんの部位、分布様式,大きさからはじまり,発症することによるその人の人体各部位の生化学的、生理学的影響、そして生活や仕事への影響など。それこそ生物ー心理ー社会的にさまざまなファクターが考えられます。そうした記述を限りなく細分化していくと、もはやそこに偶然が入り込む余地がなくなる。中島さんの言葉を借りると「蒸発してしまう」のです。ここにおいて偶然とは、B)の世界に止まることにおいて初めて成立する世界認識の一つという事ができます。九鬼はその点を知っていて、その限りにおいてしか偶然が科学の与件にはならない、根源的な解明対象としては扱えないことを見切っていると解釈できるかもしれません。

確率に関しても同じ事が言えます。私たちががんの生存確率を何%という時、それはすでに「がん」を一回限りではない、いくつかの他のケースのがんと「同一のもの」として見ています。本当に知りたいのは、今のこの私の一回限りの固有の「がん」であり、この私ががんになるかならないかである。いやこの言い方も正しくないかもしれません。この私の「がん」と口にした瞬間にそれは「がん」という同一もののとして括ってしまうことになる。こう考えていくと、確率というのはとりあえず未来をある程度予測するためのに導入された概念であり、それなりに(かなりの力を持って)未来予測に寄与するが、世界をA)ととらえる限りにおいては作られた虚構であると言えます。

【EBM、NBMの概念を再考する】


こうしてみると確率に基づく「予測」についてもその不可能性もみえてきます。先述のように事物が起きる前は1%以下などというたとえ小さな確率であっても、起こってしまえば完全に起こる。この「これまで」と「これから」との間に大きな裂け目がある。この裂け目は,これまで起きてきたことを「同一のものの集まり(Bの世界)」とみなし、そのデータを元に「これから」の「一回継起のもの(Aの世界)」を予測することは根源的に不可能であることに由来するです。ここにきて、私たちは「これまで」のエビデンスに基づいて「これから」を予測するEBMの持つ根源的不可能性を自覚することになります。

ちなみに、患者さんの物語(ナラティブ)を大切にするいわゆるNBM(Narrative-Based Medicine)においても、ナラティブというものを同一ものと捉える限りにおいて、やはり限界があります。そのひとの「物語」と口にした瞬間,その人に「固有のもの」「異質なもの」は退けられカテゴリー化されます。この陥穽にはまらないようにするためには「物語」というものそのものの概念を捉え直す必要があると思われます(このことはまた別の機会で考えます)。

さらに、上記の「確率」概念同様「リスク」という概念自体をとらえ直す視点も提案されています。フランスの哲学者,ジャン=ピエール・デュピュイは著書「ありえないことが現実になるとき:賢明な破局論にむけて」のなかで、現代社会の「リスク」について,情報の複雑さや人間の能力不足のためではなく、そもそも(先述のような意味で)確率を把握する事が構造的に不可能であるが故に不確実性が生じている、と考えます。その上で「破局がどの程度まで予見されるかではなく(それを知ることはできない)、破局がいずれ必ずおこるものだと考えることを提案しています。

世界は不確実で複雑なのではない。世界はすべて異なるものの一回限りの継起の集まりである。それを同一のものと捉え直したときに「不確実」で「複雑」だと感じるのは,同一のものを捉える枠組みの問題に過ぎないのではないか。そうした枠組み自体が虚構ではないのか。

現代の基本的な課題として、もはや日常語となった「VUCA Agenda(ブーカ アジェンダ)」すなわちVolatility(変動性)・Uncertainty(不確実性)・Complexity(複雑性)・Ambiguity(曖昧性)でさえも、破局に直面した病者=当事者にとっては根本的な問題とならないのです。そうした”VUCA” 性を私たちはそもそも論じる事ができないかもしれない、そうした事は不可知であり、それ故に信憑性が不在である、そこまで考えさせられるのです。

【概念工学の意味】


ここまで、EBMやNBM、確率やリスクなど、現在臨床医にとってもおなじみの概念を、ひっくりかえすようなことばかり述べてきました。「そう言ったら身も蓋の無い」「目の前の患者はそれでもいる」、そういう声が聞こえてきます。

ここで述べている事は、決してEBMがダメだとか、確率の考えを否定するなどということではありません。何度も述べているように、依然としてEBMは医療の中心的姿勢として人間生活の大きな寄与をしているし、これからも大切に考えていくべきものです。

にもかかわらず、それらが根本的に持つ限界を知る事は、EBM的思想が絶対的なものではない、それをあたかもバイブルのように信じて患者さんの前に規範として提示することはやめた方がいい、そしてそれはNBMにおいても同じことが言える。そういうふうに行動にコミットできると思うのです。

くりかえしますが、本noteでは、事物をとらえる視点を一つのものだけに固定することをよしとしません。基本的に先述のある一つの視点(例えば「同一性」とその対極にある視点(例えば「個別性」)の両方を見据え、両者の間を行き来する。Aは限界があるかもしれない。本当はBかもしれない、「にもかかわらず」それを知った上でA(あるいはB)を洗練させていく。そう言う「にもかかわらず」の姿勢、哲学者、千葉雅也さんの言葉を借りれば「仮固定」の姿勢で 考えていきたいと思います。

さて,ここにきて現実問題として治療法を「選ぶ」事が必要となってきます。EBMの限界が見えたからと言って、ではその限界を「当事者として」乗り越えていくにはどうすればよいのか。
今回そこまで踏み込めませんでしたが,このときやはり最重要となってくるのは,今回視野に入ってきた「偶然」というものをどうとらえるかということと思われます。

次回は「偶然−必然」問題とを通して私たちが「選ぶ」とは,「意思決定」をするとはどういうことがについて考えたいと思います。


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