裁判傍聴記・鹿児島地方裁判所における裁判員裁判「下福元町高齢夫婦強盗殺人事件」南日本新聞朝刊(2010年11月3日~12月11日)掲載
この記事について
南日本新聞社からの依頼で、鹿児島地方裁判所における裁判員裁判で、死刑求刑の否認事件として注目されたいわゆる下福元町高齢夫婦強盗殺人事件の傍聴記を執筆しました。新聞に掲載されたものは、新聞社による表現等の補正が入るため、ここに載せているものとは多少の違いがあります。検察官の死刑の求刑に対して、被告人が現場へ赴いたことを認めつつも、強盗殺人の犯人であることについては合理的な疑いが残るとして無罪が言い渡されました。本件は検察官控訴ののち、福岡高検宮崎支部係属中に被告人死亡によって手続きが打ち切られました。
第1回公判期日 (2010年11月2日)
鑑定内容見極めが焦点
報道のカメラや裁判員制度反対を叫ぶ街頭宣伝でごった返す裁判所前の喧噪をよそに、法廷はいつもどおりの厳粛な空気の中にある。壇上に並ぶ市民の姿は、もはや日常的なものでしかなくなった。無実を叫ぶ者に死刑を言い渡す可能性がある審理の重みは、一般市民か専門家かの違いではなく、人知の限界に直面するがゆえの重みだろう。問われるのは裁判員の能力ではなく、これまで存在してきた制度の「正しさ」のほうである。
この事件では、被告人の自白や目撃者の証言など、被告人が犯人であることを直接に証明する証拠が存在しない。冒頭陳述によれば、検察官の立証は、犯行現場に残された指紋や細胞片のDNA型が被告人のものと一致することを、最大の、そして唯一の柱とするものになる。これらの証拠は、それ自体は情況証拠に過ぎないとはいえ、一見すれば、被告人が犯人であることを強く推認するかのようにも見える。しかし、こうした科学的な証拠も、鑑定に使う資料や方法に間違いがある可能性に目をつぶってしまえば、裁判所の判断を誤らせる危険な道具でしかない。弁護人の冒頭陳述からは必ずしも明らかではないが、今後の審理では、指紋やDNA型鑑定の内容が具体的な争点のひとつになろうか。鑑定という「専門家の領域」に裁判員はどこまで向き合えるか。法曹三者の知恵が問われる。
また、弁護人の冒頭陳述は、現場の状況などから浮かぶ犯人像と被告人とが一致しないことを柱とした。それ自体によって被告人が犯人である可能性が払拭できずとも、被告人が犯人であることに「合理的な疑い」が生じれば、有罪判決はできない。結論はどうであれ、裁判員によって刑事裁判の基本原則を踏まえた事実認定が示されるか。ここでもまた、法曹三者の専門家としての新たな力量が試される。 (2010年11月3日付・南日本新聞朝刊)
第10回公判期日(2010年11月17日)
試される”私たち”
11日間にわたる長い審理を締めくくる公判は、遺族による意見陳述から始まった。おそらく遺族は、否認を続ける被告人に対して「犯人だ」と言いたかったのだろう。しかし、今回使われた意見陳述の制度は、あくまでも「被害に関する心情」を述べる制度である。裁判長は、遺族が示していた内容のうち、犯罪事実に関する部分については、陳述を認めないことを告げた。
この事件でまず問われているのは、被告人が本当に犯人かである。前日までの審理でもなお、双方の主張をめぐって真実は混沌としたままだ。そんな中で語られる「犯人を死刑にしてほしい」という遺族の心情は、宛名もないまま、漠然と法廷に漂ってしまう。有罪か無罪かを決める手続きと刑を決める手続きを二段階に分けるべきだ。
続いて論告と弁論が行われた。この裁判は、冒頭陳述で弁護人が示した「別のストーリー」の衝撃から、「被告人犯人説」と「顔見知りの第三者犯人説」を対置するものとして受けとめる向きがあった。しかし本来、刑事裁判では、検察官が示したストーリーに合理的な疑いの余地があるかどうかだけを検討すればよい(別のストーリーを弁護人が証明する必要はない)。論告と弁論では、双方がこの点に議論を収れんさせた。
難事件であることに変わりはないが、被告人の犯罪が証明されたかどうかについて裁判員が判断する指針は、検察官・弁護人の努力によって明確に示されたのではないか。
この裁判は、最終陳述でもなお「濡れ衣だ」と訴えた被告人の生命を、刑罰の名の下に奪うことになるかもしれない。死刑が求刑された後の傍聴席を包む空気の重苦しさは、壇上だけでなく私たち全員が試されていることを、もはや知ってしまったためだろう。 (2010年11月18日付・南日本新聞朝刊)
第11回公判期日(2010年12月10日)
市民参加の真価現れた
判決は、指紋やDNA型鑑定の信用性を認めて被告人が現場に行ったことを認めながらも、強盗殺人を行ったことには合理的な疑いが残るとして無罪を言い渡した。「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の大原則を堂々と示すものであり、市民が裁判に参加することの真価が最もよく現れた判決である。
ただ、無罪判決は、市民の素朴な感覚だけに根ざしているわけではない。判決は、情況証拠によって犯罪を認定するときの基準として、情況証拠によって認められる事実の中に、被告人が犯人でなければ合理的に説明できない(あるいは説明が極めて困難な)事実関係が含まれていなければならないと述べた。これは、平成二二年四月二七日に最高裁判所が出した判例の中で述べられている事実認定のルールをそのまま敷衍したものだ。おそらく評議においては、この最高裁判例の枠組みに沿って、情況証拠の評価に取り組んだのだろう。
市民感覚を活かした裁判とは、行き当たりばったりの印象論で判断することではない。刑事裁判の原則から導かれる具体的なルールを裁判員が正しく理解しながら、そのルールを自分の目線で健全な社会常識に照らしながら適用することを意味する。この判決はまさにそのようなものであった(なお、そうだとすれば、控訴審が異なる判断をするのは困難だろう)。裁判員との対話の中でこれらのルールをきちんと伝えた裁判官たちの力量も無視すべきではない。
さらに、判決は、被告人に有利な情況証拠についても「すべて漏らさず」確認すべきとした。この指摘は、今後の裁判員裁判でも参考にされるべきだ。
無罪判決は、真犯人を逃したことを意味する。法廷での意見陳述まで行ったご遺族の無念はいかばかりだろうか。判決は、随所において初動捜査での証拠集めの杜撰さを指摘している。真相究明に至らないもどかしさは、市民のひとりである裁判員もまた思いを同じくしたことだろう。同じことを繰り返さぬために、捜査のあり方を検討すべきである。指紋やDNAは魔法の証拠ではないことを、もはや「素人」たちも知っている。