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書くと思う前に書いている、書かずに書く[2021/3/4]


・今日は無事に、計画通りの時間に起きることに成功した。

・何を当たり前なことを、と思うかもしれないけれど、フリーランス(大学院生)で一人暮らしとなると、何時に起きようが誰も何とも思わない。一切規範がない。二度寝、三度寝し放題。健康的な、一般的な時間に起床できるかどうかは、理性と胆力。というか、寝起きの頭に理性があるかどうかは、僕にとっては運の問題。毎朝、起床ガチャを引いている。

・レム睡眠のときに起きるように睡眠時間は90分の倍数で~とか、いやレム睡眠の切り替わる間隔は人によって違うから、起きたい時間の20分前に小さめのアラームをかけておいて~とかいうけど、起きられないよ、それでも。


・「よし、じゃあ朝から論文書くか」と思った瞬間から、胸が冷たくなってきた。鉛を飲みこんだような気分である。論文書くか、と思って1文字も進捗がなかったり、大きな壁にぶち当たったりしたら、それはそれは恐ろしいことだ。

・実際、取り組めば、そこそこの進捗があるものだ。なのに、ポモドーロ・タイマーを押す前はいつだって「もし書けなかったらどうしよう」という不安に襲われる。不思議ですね。

・「書くと思う前に書いている」か、「書かずに書く」境地に至らなければ、これを脱することはできない。「書かずに書く」は哲学者の千葉雅也がよくキーワードにしている執筆術で、僕もアウトライナーのWorkFlowyを使いながら3年ほど実践してはいるのだけれども、いまだに身体化していない。

・それに対して、日記を書くのは気楽なもんだな。完成度なんて気にしなくていい。「完成」の基準がない。


・溜めてた、九井諒子『ダンジョン飯』の8~10巻読んじゃった。異世界ものブームの火付け役だと思うんだけど、相変わらず「なぜ魔物を食べなければいけないのか」の理由付けが強いのがいいよなあ。サキュバスとか、ネクロマンサーとか、エグくなりそうなネタのときに珠玉のギャグでポップにできるセンスも素晴らしい。


・昨日に引き続き、左古輝人編『テキスト計量の最前線』を読み進めて、読了した。

・自分の研究領域に近いものでいうと、樋熊亜衣「婦人運動とウーマン・リブとの架橋――「日本婦人問題懇話会」の会報にみるリブへの共感と距離感」は勉強になった。

・婦人運動の限界が来たのでウーマン・リブへ、という段階的な史観でなく、「リブの登場が既存の婦人運動の終焉ではないならば、リブの登場は既存の婦人運動にとってどのような意味を持ったのか、その役割を提示したい。そうすることで、上記のような段階論的な構図ではない、女性運動の継続性や多様性を示すことができるだろう」(p. 122)という態度は、今後、学説史的にものを考えるときに頭に入れておきたいと思う。

・著者のこうした史観を支えている、注5の、

Taylorは、アメリカの女性運動研究は、1900年代から1920年代まで、1960年代以降の女性運動という二つのピークにのみ焦点を当ててきたと指摘する。彼女は運動の「abeyance」[(一時的な)中止・停止]に注目し、運動が活発でなかったとされる1945年から60年代までの女性運動を分析し、この時期の運動こそが、二つのピーク(1900年代から1920年代と、1960年代以降)を繋ぐネットワークや集合的アイデンティティ等の形成する役割を果たしたと結論付けた。(p. 122)
※Taylor, Verra, 1989, "Social Movement Continuity: The Women's Movement in Abeyance," American Sociological Review, 54(5): 761-75. 

も面白い。



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