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森三中・黒沢は肛門に空気を入れるべきだったのか――女芸人と男社会
大森靖子の新刊『超歌手』所収の「女芸人の墓」がとても面白かったので、感想・レビューとして、僕も書きたくなってきた。大森は、「ドキュメンタル」シーズン4の黒沢について、少しだけ書き漏らしていると思うことがあるからだ。
大森靖子「女芸人の墓」要約
大森は「音楽業界で女性として他のバンドマンと同じようにステージに立つのって、(…)まじで女っていうのが邪魔でしょうがなかった」と語る。
自分は否定しようもなく「女」ではありつつも、「『女として扱われないこと』が『差別されないこと』」であると思っている。大森は「女を利用することも守りたいし、女を捨てることも守りたい」。
大阪の音楽シーンで最も影響力を持っているラジオ局の番組に、メジャーデビューのタイミングで出演したとき、「生理のナプキン」というワードを使ったら、「自主規制ワードです、今後気をつけてください」と言われたんですよ。「は?」みたいな。全然言わないですけど、「は?」って思って。
「生理のナプキン」の話を公共の電波に乗せる行為は、まさに「女を利用」(少なくとも男には利用不可能であるという意味で)でありながら、同時に「女を捨てる」ことでもある表現だった。しかしそれが否定されてしまう。
そんな大森には、泣くほど笑った経験が人生で4度あるという。
1つは、「森三中の大島さんがタオルを下半身に巻いて、ダウンタウン浜田さんの入ってきたサウナに胸丸出しで涅槃仏のように寝転がっている場面」。
2つ目も同じく、森三中の大島が「『マン毛ーーーーー!』と絶叫」したシーン。
3つ目はハリセンボンの近藤春菜のツッコミ、そして4つ目が、「ドキュメンタル」シーズン4で、森三中の黒沢が「生理のナプキンを笑いに変え」たシーンである。
ダウンタウン・松本人志は『遺書』で「『お笑いでは自分のすべてをさらけ出さなくてはいけないのに、女は身も心も素っ裸になることができない、だから女は笑いに向かない』という趣旨のことを書いていた」らしい。
にもかかわらず、「絶対に笑ってはいけない」および「ドキュメンタル」という松本人志の番組で、女芸人が爆笑をかっさらったことに、大森靖子は自分が目指す「人間としての閃き方のスタンス」を発見している。
黒沢の最後の挑戦
以上が、大森靖子「女芸人の墓」の自分なりの要約である。
大森に対して反論・批判は基本的に1つもないのだが、「ドキュメンタル」シーズン4の黒沢の結末については補足が必要だと思う。
大森が、
黒沢さんが急に泣いてしまうところも、「あーわかる」って私はめっちゃ共感して。旦那は横で「え、なんで泣くの!?」って言ってたんですけど。
男についていけないとかじゃなく、男しか面白くないポイントとか、男だから面白くなれるポイントとか、ロマンみたいなものとか、そういうのにどうやっても疎外されることにちょっとずつ傷ついてしまうことが私もよくあって。
と書いているのは、シーズン4の1週目ラストである。
黒沢が、他9人の男芸人の笑わせ合いに入っていけない疎外感で、「男社会だなあって」と言いながら泣くのだ。展開が急で笑ってしまったし、同時に何か批評性のある、すごく良いシーンだった。
しかし、この泣く黒沢の姿は、最終週とセットで考えたほうがいいと思うのである。
「ドキュメンタル」season4の最後に、すでに脱落している4人の男性芸人が、肛門からエアポンプで空気を注入して屁をこく謎の競技をし、残りの参加者を笑わせようとする一幕があった。
中堅芸人による体を張ったヨゴレ芸で、FUJΙWΑRΑの藤本が吹き出すほど笑ってしまい脱落。破壊力のあるコントだった。
残った参加者は4名、タイムアップまであとわずか。
大逆転の可能性に賭けて、黒沢はおずおずと「わかんないですけど1回やってみます、今の」と言うのだ。
女芸人が肛門に空気入れを?
結局、野性爆弾・くっきーと安田大サーカス・クロちゃんに止められ、裸が見えないようにと、小道具置き場であるロッカールームで、黒沢はエアポンプを仕込むことになる。
だが、その数分後、黒沢は「入れ方がわかんないです」と言いながらロッカールームを出てくる。
何とも言えない変な空気のまま、無情にもタイムアップ。優勝は野性爆弾のくっきーに決定してしまうのだった。
「男社会だなあって」と言いながら泣いた黒沢は、大逆転に賭けて肛門に空気を入れようとしても、男性芸人に止められた挙句、一人では入れられなかった。結局、社会的に男にしか許されていない・できない芸というものがあるのだ。
第1週の展開が最終週で回収される、この1本のストーリーこそ、批評性があると思う。そして、僕の予想にすぎないが、もし黒沢が肛門に空気を入れていたら、大森靖子は人生で5回目の笑い泣きを経験したのではないか。
この幾ばくかの突き抜けなさが、黒沢の最後の挑戦について書くのを大森に控えさせたのだと思う。
黒沢は「男社会」に入るべきだったのか?
しかし、もし空気入れを肛門に挿入できていたとして、「泣いていた黒沢は、肛門にエアポンプを差し込んで、無事に『男社会』に入ることができました。めでたしめでたし」とはいかない。
これは、もし笑い泣きしたとしても、大森も同意すると思う。「女が男並みになれました」はハッピーエンドではない。ことはそう単純ではないのだ。
大森は、「女芸人の墓」の最後をこう締めくくる。
なんかね、やっぱり「ざまあみろ」って言いたいんですよ。それは全然、「見返したい」とかそういうのじゃなくて。だって見返すっていうのは見下されたって認めた上で、のちにこちらが上から見返すってことだから、違うんですよ。もともと私の力量を見誤ってたんでしょって思うんですよ。私が下だったことなんて1回もないですよ。上とか下とか以前に、おまえが私より上かも!? と私の視界に入ったことすら一度もないですよ。
大森靖子や女芸人にとって、「見返す」ことは正しい勝利ではない。男女の間の不均等な何かを組み替える運動は「上下」ではないのだ。そして、「男社会」の「内外」でもないはずである。
お笑いという男社会における、女芸人の立ち位置の難しさ。これを最近よく発信しているように思うのが、女性のコンビ、Aマッソである。
Aマッソの「進路相談」は、「わたしラーメン屋になりたい」と夢を語る女子生徒に、女教師が「先生な、女がつくったラーメン食べられへんねん」と返す、ブラックユーモアなコントである。
「たとえばな、ワールドカップのチケットもらったって言うて、イエーイって言って行って、なでしこジャパン……やったらどう思う?『あ、騙された』って思わへん?」といった最悪な(だから面白い)喩えのあと、
「Aマッソって知ってるか?(…)ああいう女芸人が一番嫌いやねんなー!(…)中途半端な。何として観てええかわからへんねん。女にもようしてへんし。え? 何がしたいのかわからへんねん、ああいうの。結局男の真似事にすぎへんねん。(…)あのな、最近女芸人がいっぱいテレビ出て言うて、おもろなった言われてるけど、あんなん嘘やぞ。テンプレートが蔓延してるだけじゃ!!コツ掴んでやりやすなっただけじゃ殺すぞコラァ!!!」
と、コントに急にメタ視点が入り込み、自虐の返す刀でお笑い界を斬る。
なお、Aマッソの加納は、ゴッドタンの腐り芸人回でも、「女芸人ってボケたらアカンのですか?」と悩みを吐露していた(「腐り芸人」であるノブコブ徳井のアドバイスは「お前が女芸人の歴史を変えろ」という、悪く言えば無責任なものだったけれど、触発されておぎやはぎも劇団ひとりも芸人論を熱く語り出す、サイコーな回だった)。
結論――結論なし
しかし、女性の芸人の問題を難しくしているのは、「どの芸人さんもすげえ面白い」ということだ。だから僕のこの記事は、なよなよとした軟着陸に向かってしまう。
女芸人の境遇に批判的な芸人として、にゃんこスターのアンゴラ村長を忘れてはいけないだろう。
アンゴラ村長は、尼神インターに「可愛い言われてるけど、そんなにやぞ」とイジられ、
「顔とか生まれとか変えられないモノをさげすむのは古い」
「ジャンヌダルクだったらそんなイジリしてない」
と返した。
もちろん、僕は尼神インターによるアンゴラ村長イジりにまったく同意できない。しかし、尼神インターの「顔」がネタを面白くしているのも事実だと思うのだ。
前に「俺はおかずクラブのゆいPが好きだ」にも書いたけれど、アリアナ・グランデがハリセンボン近藤春菜に「あなたは本当にマイケル・ムーアに似てないから。私が約束する」と声をかけたのは、芸人にとっては呪いの言葉であり、美談でもなんでもないと僕は思う。
「不細工な顔」をイジってはいけないのは当然だ。しかし、「面白い顔」は「美しい顔」と同様に誇りになりうる。
(「不細工」「面白い」の価値判断はコンテクストなりアイデンティティなりに依るので、客観的な一般化は全くできない。「マイケル・ムーアに似てなくて可愛い」が貶し言葉になりうるのと同様、「あなた、面白い顔してますね」が褒め言葉にならないことも多いのは当たり前だ。)
だから難しい。
これまで、「女を捨てた」容姿をネタにするのが、女芸人の生き残るための有力な戦略とされており、大森靖子が笑い泣きした森三中、ハリセンボンはそのなかのかなりの成功例である。
そして、それをAマッソやアンゴラ村長が批判し、別ルートの売れ方、笑わせ方を模索している。
本当はここで、Aマッソとアンゴラ村長の芸人スタンスを褒めちぎりながら、個性的な容姿を武器にする芸人(とそれを笑う風潮)に対し、
「森三中、ハリセンボン……大森靖子が好きな女芸人たちの墓が立った」
とでも言っておけば、二項対立の分かりやすい、筋の通った1本のストーリーになる。
でも、世の中はそう簡単に二分できるものではない。森三中、Aマッソ、アンゴラ村長、尼神インター……誰かが間違っているとか、誰かが面白くないとか、はっきり塗り分けられることではないのだ。
Aマッソがいうように「女芸人のテンプレート」はあるのかもしれない。
けれどもとにかく、それと闘う芸人もふくめさまざまな芸風があって、しかもどのパターンも面白いこの時代に生まれて、幸せだなと思う。
にもかからわず、この記事のために女性の芸人のフリー画像を探したところ、「いらすとや」に女性の芸人のイラストはなかった。他のフリー画像サイトを探しても、管見ではほぼ見つからなかった。
平均的な「芸人」(や、棋士や作家などのさまざまな職業)が「男性」であるとされている現況だけは、どうにか変わらないものかなと思う。
あと、これ↑、どんなコント???
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