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「Vtuberは女性蔑視」フェミニスト議連による抗議の一考察~分断と新陳代謝

ありふれた、いつもの紛争…ではなかった

2021年9月上旬。県警松戸署の交通安全啓発動画として起用されたVtuber「戸定梨香」(とじょう・りんか)に、いつものごとくフェミニストが噛みついた。曰く「体を動かす度に大きな胸が揺れる」「極端なミニスカートで、女子中高生だと印象付けて、性的対象物として強調している」ことが女性蔑視を喚起し、差別を生んでいるとのことである。千葉県警はこれを受けて啓発動画を削除、その後のコラボレーションも白紙となる。SNSの一部でも「公共の場に相応しくない」と賛同する声も見られた。

【フェミニズム議連による抗議文全文】
https://www.facebook.com/afer.fem/photos/a.1263766637066334/4215714258538209/?type=3&theater

しかし戸定梨香氏が所属する芸能事務所の板倉節子代表取締役は、この抗議に対して「見た目だけで判断されるのは納得がいかないし、それこそ女性蔑視ではないか」と反論。これまでの各所紛争の燻りもあり、板倉氏の抗議に賛同する者がSNSを中心に多数続出。多くの議論を呼んでいる。

これだけを見ると、賛否はあろうがありふれた紛争である。古くは、人工知能学会紙の表紙、伊勢志摩のPR萌えキャラとして起用された碧志摩メグ、最近では献血ポスターに利用された宇崎ちゃん…など、フェミニズムとオタク文化は「公共に相応しいか否か」をめぐり、泥沼の紛争と憎悪を繰り返してきた。

しかし、今回はやや性質が異なる。これまでのこういった抗議は、一般的に市民から寄せられたクレームが主であったが、今回この抗議を行ったのは「全国フェミニスト議連」。世話人の市民も多くいるが、中核を成しているのは国民により選ばれた議員たちなのである。またこの議連が行った抗議内容も非常に強く「動画の使用中止、および削除を求めます。」と一方的であり、各所で火の手が上がることとなった。

2021年10月1日現在、板倉氏の反論への賛同署名は6万4000人を越え、これはフェミニズムにより巻き起こった「KuToo」署名の倍以上となる。

「問うただけ。削除した千葉県警に責任がある」

この反論と莫大な署名数を受け、フェミニズム議連は取り急ぎの声明を掲載。議連の公式な見解については、今後表明するとした。

提出した文書は、公的機関としての認識を問うたものです。
当該動画の掲載も、削除も、ともに千葉県警によるものです。

現在、多数のメール等が多種の内容で寄せられており、個別に回答は致しかねます。悪しからずご了承ください。

引用:https://afer-fem.org/?p=1416

また共同代表の増田薫市議(松戸市)は「議連が圧力をかけたという話は勘違いで、ゆがめられている。抗議は自由で、責任を取るべきは警察のほう」との回答を行っている。​

しかし、当該議連が送った抗議文の内容に「動画の使用中止、および削除を求めます。」と明記されていることから、無理筋であることが明白である。これが通じるならば、例えば「死ね」という言葉でとある人物をいじめていたとして、その人物が自殺してしまった場合でも「認識を問うただけ。責任をとるべきは自死を実行したほうだ」という理屈が通ってしまう。

仮にこの一文がなければ、抗議文後述の内容から「抗議し認識を問うただけ」という回答には納得はできるが、表象憎しを文章に書き起こしてしまったことが仇となったようだ。

現在フェミニスト議連による公式な見解公表はされていないが、取り急ぎの声明でこれであれば、おそらく公式な見解となれば、大きな延焼燃料となるのは想像に容易い。またフェミニスト議連の行った抗議に対して、別所からカウンター抗議が行われ回答が迫られているが、フェミニスト議連は一切の回答を行わず沈黙を続けている。仮にも議連を名乗り抗議を行った団体が、自身に寄せられた正式な抗議には不誠実というのは、なんとも皮肉である。

被抑圧者が抑圧者へ…繰り返す新陳代謝

こういった「公共の場にふさわしくない」「いやらしいのでダメ」という批判は、対象はオタクコンテンツ限らず過去数多く行われていた。そして抗議を寄せる人々もフェミニズムを思想とする人に限った話ではないのである。

例えば、非オタク的なコンテンツでいうと、演歌歌手の丘みどり氏が過去「へそ出し」衣装で公演した際には、やはり同様に批判が行われた。

もっと過去にまでさかのぼれば、かつてビートルズはその演奏スタイルから当時の中高年より「うるさいだけの騒音」とメディア露出を批判されていた。ジェームズディーンについても、その煽情的なダンスや語り掛けを「公共の場に相応しくない」「不良」「いやらしい」と批判する人は決して少なくなかった。

しかし時代の価値観は変わるもので、今やビートルズの楽曲はテレビや各種メディアでも当たり前のように使用されており、今もなお老若男女関係なく多くの人に親しまれている。ジェームズディーンへの批判も今や過去のものになり、故郷メンフィスには立像やポスターが至る所に存在する。

オタクコンテンツにしても同様で、かつてそれを愛好する「オタク」たちは犯罪者予備軍たちとも呼ばれ、多くの偏見に晒されていた。そしてオタク側も日陰でひっそり楽しむことを良しとし、世間からの風当たりを恐れ公への露出を自ら批判する時代があった。現在ではクールジャパンの代名詞としてオタクコンテンツは世界各国へ輸出され一般化し、そういった趣向を隠す風潮もなくなりつつある。

こうやって見ると、世代間の価値観はときに大きな衝突を生むが、結局のところ抑圧側の価値観は新しい価値観にマジョリティを奪われ、やがて消えていく…という一連のパターンが存在するように見える。そしてマジョリティとなった価値観を持つ人たちも、やがて新しく生まれた価値観を良く思わず抑圧し、衝突の末にマジョリティを奪われて消えていく…といったことを、飽きることなく繰り返している。

一見無意味な分断にも見えるが、これは価値観の新陳代謝でもあるので、個人的にその分断には大きな価値があるようにも思う。

今回の騒動でいうと、フェミニズム内部でもかなり意見は分かれており、今回フェミニスト議連に賛同した者たちは中高年代が多い。逆に若年層のフェミニストには「かわいい服のどこがだめなの?」「なんで公共の場に相応しくないの?」「押し付ける事こそ差別では?」と、フェミニスト議連の抗議に疑問を持ち批判の立場をとっている人も少なくない。かつて「女性の解放」を望み心血を注いできた人たちが、いつの間にか抑圧者側に回り批判に晒される…という、新陳代謝の一幕が見て取れる。

分断から生まれる創造

昨今「分断される社会」という単語がよく使われ、対立する人々を嘆く様が各所で見られる。筆者はこの「分断される社会」という言葉があまり好きではない。「そもそも私たちは一度たりとも調和し一枚岩になったことはない。むしろ今までずっと分断されていたのだから、それが自然なのでは?」という立場をとっている。

「公共に相応しいか否か」「いやらしいか否か」、こういった社会通念上の常識というのは、マジョリティの持つ価値観に大きく依存する。故に議論は交わされて然るべきであると思うし、自身の信じる価値観をもって抑圧側に挑み、双方どちらがマジョリティかの闘争を繰り返すことは、価値観の新陳代謝につながる健全な「分断」なのだと思う。そして分断と新陳代謝を繰り返すことで、世の中は少しずつ変わっていくのではないだろうか。

今回のフェミニスト議連の起こした騒動もまた、その新陳代謝の一部になるのではないか…というのが、筆者の思うところである。おそらくこの騒動もいずれは終わり、そしてまた別の騒動が巻き起こるのは想像に容易いが、これまで妄信的にフェミニストの批判を肯定することが多かった市井にも揺らぎが生まれているようにも思う。

価値観の新陳代謝であるのならば、それに大賛成である。この騒動の間は、全国フェミニスト議連との「分断」を大いに楽しんでいきたいものだ。


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