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神戸・塩屋に残された洋館「旧グッゲンハイム邸」~取り違えられた施主情報をめぐって~

 私の自宅がある神戸市垂水区の東部には、南が海に面した坂の多い塩屋という街がある。昨年、塩屋にある旧グッゲンハイム邸として知られる洋館が、実は別人宅だったという驚くべき報道がなされた。ここでは、邸宅の施主情報の取り違えをめぐる過程を中心に追いながら、旧グッゲンハイム邸の歴史の一端をとらえてみたい。
 神戸では1868年の開港後、外国人は今の神戸市中央区の指定された居留地または周辺の雑居地に住んだが、1899年に居留地制度が廃止され、それ以外の場所に居住可能となった。また、1888年の山陽鉄道(現在のJR山陽本線)設立などの鉄道延伸により、神戸西部へのアクセスが容易になったことで、塩屋を含めた垂水周辺に外国人の住宅が広がった。旧グッゲンハイム邸は、外国人が塩屋に住み始めた比較的初期の明治後期に建設された洋館である。
 施主で最初の所有者は数年で同邸を手放し、1915年からは川畑邸、1952年に稲畑邸、1966年に竹内油業塩屋寮、2007年に森本邸と所有者が変わっていった。通常邸宅の名称を示す場合、所有者の名前を冠することが多いが、特に戦後、洋館が貴重な歴史的建築物として注目されるようになり、多くの洋館で愛称的に施主の名前を冠するに至ったものと推測される。同邸では、ドラマなどの影響で異人館が注目されるようになった1970年代から80年代にかけて、すでに地元において「旧グッゲンハイム邸」という名称で親しまれていた。
 同邸の施主については、名称のとおり、ドイツ系米国人の貿易商ジェイコブ・グッゲンハイム氏であるとされてきた。しかし2020年8月、日本建築学会近畿支部が、北側の洋館「旧竹内邸」も含め改めて調査を行い、当時の土地台帳と同氏の孫が所蔵していた写真などから、同氏の邸宅は旧竹内邸であり、旧グッゲンハイム邸とされてきた洋館はユダヤ人実業家ジェイコブ・ライオンス氏の邸宅との見解を発表した。
 旧グッゲンハイム邸の名称について、現在確認できる文献によれば、1962年の神戸市教育委員会発行の報告書内でのリストにおいては、同邸の名称は「不詳」となっている。しかし、1969年の建築雑誌の論文では、同邸がグッゲンハイム氏の自邸であり、北側の洋館が旧ライオンス邸と記載されている。以降、1973年の雑誌で同邸の写真に当時の所有者名のみ記載されている例があるものの、1977年発行の異人館のガイド本、1980年発行の日本建築学会の総覧、1984年発行の神戸市教育委員会の資料をはじめとした文献では、旧グッゲンハイム邸と明記され、名称がすでに定着していたことが確認できる。
 ここで注目されるのが、1962年の報告書と1969年の論文の著者が共に坂本勝比古氏ということである。坂本氏は、神戸市職員ながら、神戸の洋風建築を研究する建築史家として影響力をもつ研究者であった。氏は1969年の論文の中で、旧グッゲンハイム邸のいきさつについて、「少年時代グッゲンハイム氏を知っていたという箙譲衛氏は“最初北側の洋館をニッケル・ライオンス商会主のライオンスが建て、すぐ引き続いてグッゲンハイム邸ができたように記憶する”と述べておられる」と取り上げている。現在のところ1969年の論文が旧グッゲンハイム邸の名称を記載する最も古い文献だとされることから、1969年までに得られた施主の論拠となる情報が取り違えられて認識され、この口述が補強となった可能性は否定できない。こうして以降、名称が検証されずに定着したのは、著名な研究者の見解への信頼が大きかったからではないか。今後、より詳細な解明が待たれるところだ。
 このように、施主情報が50年以上取り違えられてきたという数奇な歴史が加えられることになった旧グッゲンハイム邸だが、現在、アーティストである所有者がここを拠点にアートを活かしたまちづくりを進めている。これからも、グッゲンハイム氏の邸宅ではなかった「旧グッゲンハイム邸」という名称の興味深い洋館として、人々に親しまれ続けるに違いない。

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