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裏切りの自由主義
超投げやり! な自由主義
戦後の日本では、自由主義が正義とされた。
何が正しいのかは、自分で考えろ!
という教えである。
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きみたちは、どう生きるか?
でも、最終的には、
何が正しいのか、自分で選べ!
というある種の投げやりが結論として導かれている。
何が正しいのかは、自分で決めろ!
・・・これでは、何も決めてないのと一緒である。
他人への不干渉、他人の自由を制限しない条件で、なにを選んでもいいということだ。
・イスラム教を信じるもよし
・キリスト教を信じるもよし
・フェミニズムでも
・共産主義でも
・寝そべりでも
・家父長制でも
・結婚してもしなくても
・働かなくても、働いても
何をしてもいいんですよ!!
ということ。
自由主義は空っぽの箱である。
自由主義の答え、
自分で決めろ!は答えになっているようで、答えになっていない。
自由主義は、本当に”自由”なのか?
自由主義は、中身が空っぽの箱である。
何でもかんでも、自由に思想を選択することができる・・・・
のではない。
自由主義は、ストーリーをつくる側の人間が、中身を好き勝手に入れ替えることができる、便利な道具として利用されている。
自由主義の箱の中には、巧妙に偽装された、矛盾を含む主義主張が存在している。
自由主義の箱の中身には、いつも正解が存在している。
腹立たしいが、箱の中身は、ストーリーをつくる側の人間が、好き勝手に変更できる。
近代までのストーリー製作者は、”神”や”仏”のような超上の存在を騙り、死後の世界での救済を約束して、信者たちの行動を操作した。
とはいえ、そのストーリーの内容が頻繁にコロコロ変わることはなかった。
彼らは、教義であるストーリーを簡単に変えることができなかった。
物理的に経典が存在していたから、解釈でストーリーを修正することがあっても、その幅は限られていた。
おおむね、
決められたルール(これこれこれ・・・)を守れば、死んだあとにいい思いをすることができる。
ルールを破れば、死んだあとに地獄に落ちる。
というものだ。
死んだあとの空手形を振りかざして、人の行動を操作しようというのだから、たちが悪い。
だが、現代のストーリー製作者は、昔のストーリー製作者たちと比較して、もっとたちが悪くなっている。
現代のストーリー製作者は、状況に応じて自由主義の箱の中身をすげ変える。
裏切りの自由主義 Case① 非正規労働のフリーター
1980年代、フリーターはカッコいい生き方とされていた。
1980年代には、フリーターになることが、正しく合理的な選択だったのだ。
企業で正社員になって、サービス残業が当たり前のブラック労働に従事する。(2000年代まで、サービス残業は当然の習慣であった!)
数年たったら、見合いして結婚して子供をつくる。ひたすら与えられた役目をこなす。
夜遅くまで仕事をして、休日は決められた家族サービスをする。
そんな、すべてが決められた、定められた役割をこなすだけの人生は嫌だ!
昭和の人生観を考えたら、窮屈に思う人がほとんどなのではないか?
およげ!たいやきくん を聞くと、当時の閉そく感が少し伝わってくる。
だからこそ、たいやきくんのように、毎日毎日、与えられた役割をこなすことを拒否し、敷かれたレール(たい焼き器)から飛び出して、自由になるのは正しかった。
大学を卒業しても、就職せずにフリーターになって、夢を追って、自由な働き方・自由な生き方をすることが正しかった。
一方で、フリーター=カッコいい というイメージがつくられた背景には、社会の構造変化があった。
1970年代から80年代にかけて、マクドナルドなどのファーストフード、ファミレス、コンビニなどチェーン店が爆増したのだ。
これらの飲食店は長時間営業をする。場合によっては24時間営業をする。だからこそ、大量の労働者が必要になる。
このシフト勤務や深夜勤務にフレキシブルに応えることができる労働者が、フリーターだった。
フリーターは社会の要請によって生み出された存在だった。
通常は、不安定なシフト勤務・深夜勤務をしてもらいたければ、賃金を上げるしかない。
だが、自由主義の名のもとに、新しい生き方、新しい働き方、夢をかなえるために働く、人生を真剣に考えた結果の選択と、さもそれが正しい生き方のように誘導すれば、低賃金かつ劣悪な労働条件で働いてくれる労働者が誕生する。
フリーターは1980年代には、カッコいい生き方だった。将来の夢をエサに低賃金で過酷な労働をしてくれる若者が量産された。
これは、宗教と同じ仕組みをつかった、社会ぐるみの誘導だった。
すっかり街の風景となった、ファストフード、ファミレス、コンビニ、これらのチェーン店を支えたフリーターに対して、社会は手のひら返しをする。
90年代の不況により、就職氷河期が発生した。
フリーターは、夢をかなえるために働く、自由を求めて働く、カッコいい働き方ではなくなった。
フリーターは、将来のことをちゃんと考えずに、無計画に自由を求めた愚か者となった。
フリーターになることは、バカな選択肢に、後出しじゃんけんで変更された。
非正規雇用の拡大により、
・日本の経済成長が低下し、賃金が上がらなくなった
・結婚できない若者が増加して、少子化が進んだ
と、ほとんどすべての諸悪の根源がフリーターとされた。
だが、このフリーターを作り出したのは、ストーリーをつくった奴らである。
マスメディアである。
自由主義にもとづいて、
自由な生き方を選択すべき!
と煽りつつ、その裏では、社会の要請に応じて低賃金労働者を量産したマスメディア。
自由主義の良い点は、責任をとらなくていい点だ。
最近の若者はフリーターをカッコいいと考えているようです。
若者がフリーターになる理由は、自由な働き方ができて~~~
会社員の働き方は、たいやきくんと同じで自由がなくて~~
それと比べてフリーターは○○で~~
ということで、フリーターが増加しているのですよ☆
と報道する。
もちろん、フリーターを必要としてるファストフードやファミレス、コンビニからCMをたくさんもらっているので、明るい・楽しい・カッコいいイメージをドラマやCMでバンバン流す。
その結果、フリーターを志す人間が増えるかもしれないが、それは彼らの自由意志で選んだ結果である。
90年代に不況になり、日本の経済成長が鈍化し、給料が上がらず手取りは下がり、結婚する人が減り、少子化が進む。
マスメディアは手のひら返しをする。
今の日本が悪いのは、愚かな若者が、無責任にもフリーターなどという、アホな選択をしたからだ。もちろん、企業が急に採用を絞ったり、非正規雇用を拡大した政府も悪い。なんなら、新卒一括採用という日本の慣習が悪い。
・・・・いや、フリーターを大量に必要とするファストフード、ファミレス、コンビニから大量にカネを受け取って、若者がフリーターになるよう全力で誘導したマスメディアは悪くないのか?
フリーターになるのが、人生の正しい生き方、のようなイメージを植え付けたのは誰だ?
自由主義を隠れみのに、全力で人の生き方に介入したのは誰だ?
悔しいことに、煽ったのも、そして手のひら返しをしてけなすのも、騙りては同じマスメディアである。
自由主義は、ストーリーテラーが責任をとらなくていい。
お寺のお坊さんが、いきなりブッダ(お釈迦さま)をろくでなしのニートとかいって口汚く罵りだしたら、
いやいや、お寺の仏像拝んでたあんたはなんなの?
となる。
だが、自由主義の箱を使えば、いくらでも手のひら返しをできる。
責任を別の場所になすりつけることができる。
便利な生活インフラ、ファストフード、ファミレス、コンビニ、スーパー、居酒屋、これら社会を支えた非正規労働者たちは、日本衰退のスケープゴートにされた。
いくらなんでもあんまりである。
裏切りの自由主義② 植松理論
2016年、相模原の障碍者施設で、19人が殺害される事件が起きた。犯人は植松 聖。
植松氏は、障碍者福祉施設で職員として勤務していた。
障碍者福祉の現場は、巧妙に隠されている。
僕は、障碍者とふだん接することなどないし、福祉の現場を見たこともない。障碍者といえば、テレビでみる24時間テレビに代表される”正しい障碍者”だけである。
植松氏は、障碍者施設で働くなかで、障碍者が(経済的な面において)役に立たないだけではなく、障碍者自身が、絶望し、希望を失い、ただただ生かされているだけである現状を目の当たりにした。
植松氏は、障碍者の世話をするうちに、
「自分が何者であるかもわからず、意思疎通がとれないような障害者は、生きていても社会に迷惑をかけるだけであるので、殺害してもよい」
という考えをもつに至った。
植松死刑囚の主張のなかで一貫しているのは、「自分が何者であるかもわからず、意思疎通がとれないような障害者は、生きていても社会に迷惑をかけるだけであるので、殺害してもよい」ということである。これは、犯行時からまったくぶれていない。
「何もできない者、歩きながら排尿・排便を漏す者、穴に指をつっこみ糞で遊ぶ者。奇声をあげて走りまわる者、いきなり暴れ出す者、自分を殴りつけて両目を潰してしまった者」(原文ママ)などと列挙し、「彼らが不幸の元である確信をもつことができました」と主張する。
植松氏は、以下のように考えた。
・重度の障害者たちを生かすために莫大な費用がかかっている。
・この莫大な費用は、国民の税金で賄われている。
・もし、重度の障碍者がいなければ、日本の税金はもっと安くなるだろう。
あるいは、日本の科学技術に予算が振り分けられれば、液晶や半導体の分野において国際競争に勝利できたかもしれない。
税金には、障碍者を生かすため以外のもっとよい使い道があるのではないか?
・重度の障碍者は安楽死させたほうが良いのではないか?
植松氏の考え方の根本には、シンプルな成果主義が存在する。
結果を出す人間が偉い。
結果の出せない人間は劣っている。
伝統的な日本の教育にもその考え方は現れている。
「働かざるもの、食うべからず」
伝統的なお母さんの考えにも現れている
「人様に迷惑をかけない子供になってほしい」
マスメディアは、大谷翔平選手を称え、実家に住む中年男性を子供部屋おじさんとバカにし、マナーの悪い観光客を叩く
我々が生きている世界では、
成果を出せないもの・役に立たないものは速やかに排除される。
人に迷惑をかけるものは速やかに排除される。
そして、実際に我々は、役に立たない人間が速やかに排除されることを、経験的に知ってる。実際に僕も、小学~大学までの友達関係で、たくさん排除された経験がある。
優れていないと排除される
我々は、これを身をもって経験している。
だから、植松氏の理屈に、共感してしまう。
正しいと感じる。
植松氏の考え方自体は、きわめてまっとうなのである。
現在の日本では、自由主義が正しいのだから、
成果を出せないもの・役に立たないものは速やかに排除すべきだ
との思想を持つことも自由なのである。
そして、実際に世の中は、そのように運用されている。
だが、事件後には植松氏の思想に対して、”優生思想”!
との非難が向けられた。
優生思想は、ヒトラーが使った理論で悪だ。
優生思想は、差別を生むから悪だ。
植松氏の思想は、優生思想で、ヒトラーで、差別的で間違っている!
????
いやなんで??
植松氏は、法律に違反した。
殺すべき人間を勝手に判断して、勝手に殺害したのである。
個々人が、好き勝手に殺すべき人間を判断して、殺人を実行しだしたら、秩序など維持できない。
植松氏は、その権限が与えられていないのに、勝手に人を殺した。
これは越権行為である。
勝手なことをすんな!
と非難されるのは理解できるし、正当なことだろう。
だが、植松氏の考え方は、優生思想だ!
人間には、生きてるだけで価値があるんだ!
障碍者にも平等に人権がある!
と、なぜかマスメディア連中が、急に手のひらを返したのだ。
今まで、下の階層の人間に対しては、どこか目につかない場所に行け!と排除してきた人たちがである。
そして、実際問題、植松氏が働いていた障碍者施設は人目につかない山奥にあった。現実的に、彼らも排除されているのである。
そのような扱いをしてきた社会が、ひとたび事件が発生して大量殺人が発生したら、いきなり、生きてるだけで存在価値がある!
などと言いだしたのだ。
いったいぜんたい、どういうことだ?
植松氏が犯罪をおかしたのは、間違いない。
勝手に殺していい人間と、殺してはいけない人間を、仕分けして、殺人を実行するなど、秩序維持の観点からみてとんでもない。絶対にやってはいけないことだ。
植松氏に対する非難は、
勝手なことすんな!
この点につきるだろう。
なぜ、植松氏の思想は、優生思想で間違っている!などという話になるのか?
日本の正義は、自由主義だ。
だったら、優生思想がその中に入るのは、自然なことだ。
「働かざるもの、食うべからず」
なんて、大昔からある格言である。
これが、自由主義の箱の中に入っていても、まったくもって驚くべきではない。
それにもかかわらず、植松氏の考えは、優生思想でナチズムで悪で間違っている、と言われるのである。
まったくもって理解できない。
自由主義は、テレビとセット!
自由主義は、ストーリー製作者が、必要に応じて自由に中身をすげ変えることができる箱である。
自由主義とは、状況に応じて矛盾した考えをも入れることができる、すごく便利な仕組みである。
なんでもありだ。
では、なぜこのような便利極まりない仕組みが20世紀まで活用されてこなかったのだろうか?
自由主義は、空っぽの箱である。
ストーリー製作者は、この箱の中に思想をインストールしなければならない。
ところがぎっちょん、20世紀になるまでは、自由主義の箱へのインストール方法が存在しなかったのだ。
裏切りの自由主義 Case1で取り上げたカッコいいフリーターは、テレビによりインストールされた。
夢をかなえるために、笑顔で明るく労働するフリーターの動画がテレビにより流される。テレビドラマでカッコいい俳優がフリーターを演じる。
映像により、カッコいいフリーター像がインストールされる。
その後、不景気になると、ボロアパートに住んで、貧乏な生活をする汚れた中年男性が取材される。ネットカフェに宿泊したり、ホットコーヒー1杯で夜中ずっとマクドナルドに滞在する貧乏な中年フリーターの映像がインストールされる。
裏切りの自由主義 Case2の植松理論に対する反論では、障碍者の家族がテレビに出てきて、障碍者だけれども楽しんで、喜びに満ちた人生を生きているにもかかわらず、いきなり命を奪われることに対する怒りを述べる。また、小学生が植松被告を非難する作文が読まれたりする。
そして、植松氏の考え方を、優生思想で、ナチズムで、差別主義で、悪だとする非難する。それも、被害者家族や子供など、道徳性の高い主体が非難することで、植松氏がやったことは”悪”だとの印象を植え付ける。
その一方で、非正規雇用の貧困を取り上げて、ゴミ屋敷と化したアパートや、ネットカフェ生活など過酷な生活を放映することで、役に立たない人間は行き場を失うことを暗示させるのである。
日本国の統治形態は、なかなかにハイテクである。
思想としては、自由主義を植え付ける。
空っぽの箱である。
自分で正しいと思うものを、自由に選択をしなさいと教育される。
その後、テレビ映像により、何が正しくて何が間違っているのか、正しい(都合のよい)思想をインストールするのだ。
映像は、文章ではないので、矛盾がわかりにくい。
そして、ある程度、受け手によって解釈がわかれるため、言い訳がしやすい。そんなつもりじゃなかったと。
矛盾した考えを自由主義の箱にインストールすることができるし、必要に応じてインストールするソフトウェアを変更することができる。
これほど、ストーリー製作者にとって都合のいい仕組みはない!
まとめ
自由主義は、ストーリー製作者が自由に思想をインストール・更新できる、きわめて優れた仕組みである。
そのうえ、矛盾が表面化しないのでストーリー製作者の責任が問われない。
自由主義の思想更新は、テレビを通じて行われる。
自由主義は、きわめて高度な人間統治方法だ。
素晴らしい発明である!
おまけ: 自由主義で最も必要とされる能力~今を楽しむ能力
自由主義で最も必要となる能力は、今を素直に受け入れて、今を楽しむ能力である。
そのとき、価値あると示唆されるものを、ただしく選んで、素直に価値があると感じる能力
今を楽しむ能力
GWであれば、旅行や行楽地に素直に出かけて楽しめる能力
僕は、小さいころ、”学校が楽しい”という子が理解できなかった。
イベントが嫌いだった。
やらなきゃいけないことだから、やっている。
やらされている感を常に感じていた。
本来であれば、楽しむこともできたはずだ。
おそらく、持ち前のHSP気質を発動させ、少しの刺激を大げさにうけとり自分で勝手にストレスを作り出していた。
とはいえ、一定数、自由主義世界についていけない者たちがいる。
最近の若者にも存在しており、”無キャ”などと言われている人たちだ。
無キャの人生(めんどくささを感じる人間)
この才能に恵まれない人間は、自然体で、自由主義の世界を苦しまずに生きていくことはできない。