「デジタルかアナログか」を超えて
新型コロナウイルス禍が起こって1年以上が経過しました。昨年、東京五輪の1年延期が決まったとき「1年でいいの?」と僕は思ったわけで、コロナ禍はかなり長引くと考えていたのですが、そんな僕ですらさすがに、緊急事態宣言を出したり引っ込めたりという状況が続いているとは思っていませんでした、
そんな中、進化したと言われることの一つに「WEBミーティング」の機能があると思います。TeamsやZoomなどを活用して、ミーティングは無論のこと、セミナーや講義(授業)が行われるのは当たり前の風景になってきました。僕は大学院生もしているわけですが、昨年は一度もキャンパスに足を踏み入れることなく、すべての講義がリモートで行われました。今年は7:3でリアル講義をする基本方針で始まりましたが、緊急事態宣言以降、3:7が目安になっています。まあ、僕が履修している3コマの内、2コマはリアルで行っていますが。
■デジタル化が進むのは良いことです
僕は基本的に、デジタル化が進むのは良いことだと思っています。この国では、意味不明にアナログのまま放置されていることがたくさんあります。
「請求書は朱肉で社判を押したものしか受け付けない」
「領収書は、収入印紙に社判の割り印を押さないと受け取らない」
といった大企業はいまでも数多あります。もっと言いたいことはありますが一応、自粛しておきますけど(苦笑)
「ご挨拶」と称して、緊急事態宣言下ですらアポなしで訪ねてくる人、メールで送れば済む見積書をわざわざ届けに来る人、など、本当にデジタル化時代を迎えているのか、疑問に思う日々を過ごしています。20年前、急ぎで必要なデータをメールで送ろうとしたら、「そんな失礼なことをするな。すぐに届けに行け」と上司に言われた時代からほとんど進歩がないじゃないか、と思うわけです。
しかし、こういう現状に反発して、なんでもかんでもデジタル化するのが良いという論調にも、「ちょっと待って」と思うのです。先日、当ブログでタガックスさんが書いていましたが、
アナログには良さもあり、アナログだからうまくいく部分もあるわけです。そこを無視して進めるのは逆効果だと思っています。
■WEB会議の功罪
特にミーティングに関しては思うことがあります。メールが普及し始めた頃、強固なアナログ派がいる一方で「これからの時代は、隣の席にいる人にも電子メールで連絡をするような時代になる」と主張する「先進」的な人がいました。僕も感化された一人ですが、まあ、碌な結果を生みませんでした。
学術的な心理実験でも次のような結果が出ています。共同作業をする二人を次のような条件下におきます。
A.会話することも、お互いの顔を見ることもできる
B.会話はできるけど、互いの顔を見ることはできない
C.会話はできないが、互いの顔を見ながら書面の交換によって意思疎通ができる
どのような成果が出たかと言えば、AとCにはほとんど違いがでなかったですが、Bは著しく成果が落ち込んだのです。また、複数のチームに対して、どんな手段で頻繁に他のメンバーとコミュニケーションをとったかを調べたところ、「直接対話によるコミュニケーションの頻度が高いチーム」が高い成果をあげ、一番低かったのは「メール・電話によるコミュニケーション頻度が高いチーム」でした。
「顔をあわせる」効用は高いことを示す結果になっています。人間に感情がある以上、効率性だけでは成果は上がらない。無駄に思えても、インフォーマルなコミュニケーションが重要になってくるのだと思います。
実は、Zoomになれ始めた頃、これはこれで補完ツールとしては優れものだと思ったことがありました。いまでもそう思っています。少人数のミーティングであれば、リアルではないにせよ、互いの顔を見ながら話ができるわけで、電話やメールだけのコミュニケーションより優れていると思ったのです。しかし、聞くところによると、「プライバシーを守るために」画面をオフにしてミーティングをしている会社が多いようです。それじゃあ、電話と変わらないじゃないか、と思ってしまいます。
■五感すべてを使ったインフォーマルなコミュニケーションを
人間には「五感」があります。コミュニケーションは五感をつかってするものです、僕が出来ているかは別にして。メールで要件だけを伝えたり、WRB会議で必要なことだけ話したりする、フォーマルなコミュニケーションでは、短期的な効率はあがるかもしれませんが、長期的には衰退していくと確信しています。
大事なことはインフォーマルなコミュニケーションです。以前、「本当に大切な話は講義の後の懇親会で聴ける」と言い切ったのも、インフォーマルなコミュニケーションが大切だと思ったからです。
コロナ禍がいつまで続くかわかりませんが、アフターコロナを迎えたときに、強固なアナログ派に留まっている一派と急進的にデジタル化を進めることを良しとする一派とに分断されてしまうことを恐れています。人間は言語以外にも、匂いや感触、肌感覚といったことから感じるものがあります。デジタル化が進みすぎるとそうした感性をきりすてることになるのではないか、と思います。だからこそ、できるデジタル化は進めながらも、いつでもライブができるような準備はしておいたいと考えています。
そのためにも、パラリンピックが終わる頃までは、できる限り外に出ず、割拠して力を蓄えようと思います。