修羅場経験の先には「神秘」がある
人前に立つような仕事をしてもう20年が経過した。
27歳で講師として登壇してから今日まで、振り返ればいろいろな場面に立ち会ってきた(遠い目)。
最初はやることが決まった定型的な研修講師という立ち位置からスタートしたが、やがて経営陣の緊張感の高いミーティングなど、複雑で難解な場面に立ち会う機会も数多くあった。
そんな中でも記憶に残っているのは、やはり修羅場の場面だ。
たとえば、自分が立ち上げた新規事業で、事業説明をした後に社内の意見を拾い上げるミーティングをした時に、唐突に上がった意見…
「そもそも何でこんな事業をやるのか意味がわからないんですけど!」
とある会社で経営課題を取りまとめるためのミーティングをした時に、挙手もせずに上がった意見…
「よそ者であるあなたがこんな取りまとめをして何になるんですか?こんな整理は私たちの総意ではありません!」
こんなようなトゲを含んだ意見がぶつけられる時が幾度もあった。
それまでどれだけ盛り上がっていても、たった一人の、たった一つの意見によって、空気は一変する。
そして、その意見をきっかけに、それまで内面に眠っていた「感情」が次々に表面化してくるのだ。
それまでは他人事だと思って内職をしていた参加者も、急に前に乗り出してくる。
集まる視線。痺れる手足。ザラつく舌先。
今日もみんなで仲良くニコニコして平和に終わるはずだったのに、ここで修羅場到来か…
しかし、不思議なことに、そんな修羅場の時ほど、結果的には良きアウトプットに繋がるのだ。
おそらく、みんなが胸の内を精一杯吐き出すからだろう。
一旦自分の意見は封印して、本音をしっかり整理をする。そして、その本音を承認していくのだ。
全てを吐き出した上でなされる会話は、何かのつっかえが取れたかのように、とても温和で協調的になる。
自ら進んでトゲのある意見を引き出したいとは思いませんが、一方で結果的に訪れる修羅場は、滅多に出てこない本音を露わにする機会だと思って受け入れるようにしている。
そんな修羅場経験を通じて、ようやくどんな場でもそれほど緊張せずに人前に立てるようになった。
どういう時にどう受け答えするのか?
どういう時にどういうトーンで話すのか?
どういう時にどんな言葉を選ぶのか?
こんなことを考えずとも反射的に身体が動くようになったからだ。
アダム・カヘンという人がいる。
南アフリカのアパルトヘイトをはじめとして、難易度の高い問題や紛争に対して、対話を通じて解決に導くことのできる稀有なファシリテーターだと言われている。
彼の書いた近著『共に変容するファシリテーション』において、彼のファシリテーションに触れた参加者がこんな感想を言う場面描写がある。
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