努力論03/継続的に努力ができないのは、「報酬」が知らぬ間にすり替わっているから

【前書き】
この「努力論」という論考では、書籍化を前提に、「努力は報われるのか?」という問いの正体を掴むために、「努力」という概念を構造化していく。
(編集者様がこの連載をウォッチしているので、ちゃんと書き続けなくてはならない。)
もし興味があれば01番から読んでいただけると、努力について深く理解できるはずだ。



サッカーはなぜつまらなくなってしまったのだろう?

さて、ここに、サッカーが上手くなりたいと思っている少年がいるとしよう。
たまたま見たサッカーの試合で相手を華麗に抜き去ったメッシの姿が目に焼き付いて離れない。「メッシのようなドリブルテクニックを身に付けたい…。」その一心で頑張っている。
彼は、サッカーが上手くなりたいから、誰に言われなくても夜中までボールを追いかけている。
親からは「勉強もやりなさい」と口うるさく言われているが、そんなことはどこ吹く風だ。家の中でも暇さえあればサッカーボールと戯れている。
いつもボールに触れているから、その子はサッカーがどんどん上手くなる。
ドリブルのテクニックも増え、シュートの威力も増していく。
そして、その結果、チームも強くなり、上手い子とも対戦する機会が増えてきた。そして、間近で見る上手い子のテクニックを参考にして、また上達する。

頑張れば頑張るほど、サッカーが上手くなる……この状況を前回のnoteのフレームに準えて言えば、努力というインプットに対して「意図通りに即座の報酬」というアウトプットが返ってくる「幸せの循環」と呼ばれる状態だ。

努力と報酬の幸せの循環ぐーるぐる

しかし、努力と報酬の「幸せな循環」も、ここで厄介なものが邪魔をする。副産物という存在だ。
即座×意図通りの「サッカーが上手くなる」という報酬に加えて、即座×副産物として「周囲からの注目」や「地区代表の選出」、もしくは場合によってはプロになって「金銭的報酬」といった報酬が返ってくるようになる。

副産物よ!逃げて!

「メッシのようにドリブルが上手くなりたい!」という思いでサッカーボールを追い続けてきたこの子にとって、「周囲から注目される」「お金がもらえる」ということは副産物のはずだ。それを目的にやってきたわけではない。
しかし、この副産物のインパクトが大きいと、いつの間にか当初の報酬が陳腐なものに見え始め、副産物がメインの報酬にとって変わってしまう。

当然、求める報酬(アウトプット)が変われば、努力(インプット)も変わる。
つまり、サッカーが上手くなるためにやる努力と、注目されされたりお金をもらうためにやる努力は重なる部分もあるが、異なる部分もある。たとえば、前者はシンプルにサッカーに集中すればいいが、後者のためには、たとえばメディアに出るとかSNSで目立つように振る舞うなど、サッカー以外の要素も入ってくる。
だから、副産物が知らぬ間に報酬になれば、自ずとそれにアジャストするように、努力の内容もブレてくる。

ここで問題になるのは、本人は報酬が変化し、それに伴い努力の内容も変わっていることを自覚していないことにある。
何となく報酬がずれ、そして努力が少しずつずれていく。
自分はサッカーが上手くなるために頑張っていると思っているのだが、時間の使い方は、注目を集めるためにシフトし始める。
結果的に、サッカーが上手くなるという報酬は今までのようには得られなくなり、サッカーそのものがつまらなくなっていくのだ。

俺は何をやっているんだろう?

そして、思うのだ。
「あの頃は、素直に上手くなりたいと思ってサッカーを楽しんでいた。でも、なぜ今はサッカーが楽しくないんだろう…」と。

こうなってしまう理由はシンプルだ。
それは、努力に対する報酬が知らないうちに変わってしまったからだ。
努力と報酬の「幸せな循環」が、副産物によって断ち切られてしまったのだ。

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