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震災を知らずに宮城で働くということ。~震災遺構を巡る旅 序章~

就職を機に宮城県民になり、早8年が経とうとしている。

宮城県に生まれ育ち、40年以上の勤労生活のほとんどを東北で過ごし、このままいけば宮城で人生を終える父親の、ほんの10数年の首都圏への転勤生活がわたしの学生時代と丸かぶりしたために、「今の実家は宮城だけど宮城出身ではない」という自己紹介が一言で終わらない社会人になってしまった。

「自分は関東で育ったんだからこのまま関東で就職するわ!」と言い切れればよかったんだけど、大学時代までに祖父母4人のうち3人が亡くなり、「いつかこうなった時に親のそばにいられないのは嫌だし大変だな」と一人っ子なりに考えた結果、両親を追って宮城に就職した。

生まれてから幼稚園までは母親の故郷である青森で暮らし、小学校に上がるタイミングで千葉に引っ越したけれども、夏休みや冬休みは毎年必ず青森(と宮城)に「帰って」いて、青森の親戚や、親戚同然の両親の友人たちに「おかえり」と言われめんこがられていたので、子供の頃は「わたしは青森出身だ」という自覚を持っていた。

ところが、小学3年生の時の教科書に
「『故郷』とは小学3~4年生頃に過ごした場所です」
みたいなことが書かれているのを見た頃から、わたしのアイデンティティはあやしくなっていった。

小中高の12年間千葉に住んでいたけれど、中高6年間は東京の学校に通っていたこともあって、住んでいた場所を「地元」とは思っていなかった。

わたしが大学に進学する時に、両親は宮城へ帰っていった。
「今の実家は宮城だけど宮城育ちではない」の始まりである。
かれこれ10年以上経つけれども、今でも「出身は?」と聞かれるのがとても苦手だ。

そんな出身地迷子は、暮らしたことのない土地・宮城県の、「地域に根ざした」会社に就職した。
よくある「地域とともに」的な言葉を掲げることに何も違和感のない企業だった。

そんな、今となっては「弊社」に就職することが決まって、よぎったのは「東日本大震災」のことだった。

岩手・宮城・福島を中心に大きな被害があり、言うまでもなく弊社もとても大変だったと聞いている。
そして、津波で亡くなった社員がいることも、入社前から知っていた。

「震災を東北で経験していない」

入社前から今までずっと、わたしが気にしていることである。

首都圏は首都圏で色々と震災の影響や被害があったけど、それとは比べものにならないくらいの被害があってわたしはそれをテレビ越しに見ていた側の人間。

震災後に入社しただけでなく、「あの時の宮城、東北を知らない」ということがどうにも後ろめたくて、自覚のないところで地元の人を傷つける発言をしているんじゃないかとか、どこにどんな震災の影響があるかわからない怖さとか、そういうことを、心の片隅で感じ続けてきた8年だった。
そして、だからこそ「知る義務」があるとも思っていた。

入社して、初めて女川に行った当時のインスタグラムには

宮城に就職しておきながら、津波の被災地に行ったことがないというのが、どこか後ろめたかった。
だから行けてよかった。
宮城の人ではないから、正直震災の話にどういう反応をするのがよいのかわからない時がある。
そこに答えは見つからないけど、とりあえず、また女川来たいなって思った

と記してあった。
女川はとても新しくて綺麗で、海が見渡せる美しい町で、でもその景色は震災があったからできた景色に他ならなくて。
今でも女川の景色は大好きな景色だし、忘れられない景色だ。

そんな思いを見透かされているかのように、わたしはそのあと、転勤で石巻と名取に配属された。

接客していて、持ち物を尋ねようと「○○はお持ちですか?」と聞くと、「あ~全部津波で流されちゃったわ」と返されたり。

職場の書庫から、きれいに半分だけ津波に浸かった跡の残る本が出てきたり。

合計3年に満たない短い間だったけど、
「ここの人たちはもう当たり前に、震災の跡とともに生きているんだ」
ということを肌で感じた、大きな意味のある3年間だった。

そして先日、わたしとしては”ようやく”、陸前高田、気仙沼、南三陸に行ってきた。
ずっとやりたかったけどなかなかタイミングがなくてできていなかった、「震災遺構を巡る旅」をした。
その場所その場所で写真を撮ってきて、自分のアルバムだけに留めておくのももったいないし、感心がある人の目に留まってくれたら嬉しいので、ここに残しておくことにする。

本当はそこだけ載せればいいのだけど、自分にとっての震災の背景を語らずして載せるのもわたしがすっきりしないので、これを機に気持ちの言語化がてら綴ってみた。

というわけで、つづく。

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