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生きるための希望をつかむ #04 ミロコマチコ展と、つかんだ希望

憧れと共感を抱いていた彼女はやっぱりそのとおりで、そして彼女がこうして活躍していくことは、わたしを救っていくことなんだと気づいた。

ミロコマチコが情熱大陸で取り上げられたとき、何人かの友人から「あなたみたいだとおもった」と連絡をもらった。わたしもなんとなくそう思った。彼女の絵本を全部もっているというわけではないけれど、すきなのは間違いない。伊勢丹グループのクリスマス関連のデザインに彼女が全面協力した年、伊勢丹グループである丸井今井にいった。お買い物はできないけれど、インフォメーションカウンターで紙袋だけもらって、それはいまでも部屋に飾ってある。

世田谷文学館にたどりついたころには疲労がたまっていて、荷物は全部ロッカーに預けたけれどしばらく動けなかった。出発まであと1時間半というタイミングでようやく展示に足を踏み入れたのだけど、やっぱりかなりよかったその展示、よすぎて戸惑ってしまった。こんなによかったら、あんまりたくさんある展示だと丁寧に満足にみられないかもしれない。この展示はどのくらいの広さなんだろう…。うれしい不安を抱えながら、興奮を持て余して会場をちょこまか歩き回った。

前半は比較的おとなしめの作品で、それでもタッチは変わらず彼女のもので、それなりに落ち着いてみていたのだけど、中盤にあった勢いのある鳥の絵をみたとき、スイッチが入ってしまってぽろぽろ涙がでてきた。

小学校高学年になってから発見した、低学年のころの自分の水彩画作品が衝撃だったこと、いまでも覚えている。自分でもびっくりするくらい上手だった。鉄棒に挑む自分を描いた絵が、すごく力強くて躍動感があって、そしてミロコマチコの絵をみたとき、わたしはその絵を思い出した。それから彼女の人柄にも作風にもなにか大きく感じるものがあって、ずっとずっと追いかけていた。

わたしの涙腺スイッチを入れた鳥の絵は、あのころの自分の絵と空気がすごく似ていた。似てるからって真似できるものじゃなくって、彼女にしか描けない素晴らしいものなのだけど、心がどうしようもなく揺さぶられてしまった。そこから先はここ数年のあざやかでいきいきとしたタッチの、どこか「わかる…」と感じる作品ばかりで、もう涙腺がゆるゆるになってしまって、涙が静かに流れつづけた。泣きながら、救われている自分がいた。

ここ数ヶ月プライベートで停滞が続いて、浮上したいまも宙ぶらりんな部分があって、胸を張って自分にイエスを出せない自分がずっといる。どうやって生きていけばいいのかな、と道をずっと探っているけれどなかなかしっくりこなくてわからなくて。そんな状態でやってきた彼女の展示で、彼女が彼女なりに精一杯生きて、できることの方向へ歩みをすすめ、辿りついた場所で認められ、こうして公の場で胸を張っている。それは彼女と自分を勝手に重ねている自分にとって、これ以上ない救いだった。ちかい場所で、ちかい世界をみている人が、こうして生きていること。自分らしく存在していること。なんて大きなことなんだろう。その気持ちと彼女のダイナミックな作品と彼女の言葉がわたしの胸にいっぱいに入ってきて、でてきたのは「ありがとう」だった。

谷川俊太郎もミロコマチコも、いわゆる芸術の分野に生きるひとというのは、月並みな言葉だけれど本当にすごいことで、なにがすごいかって、芸術って無くても生きていける要素なのにそれを社会に提供して彼らは生きているということ。つまりそれは、「社会が彼らを必要としている」ということの証拠で、「社会は芸術の存在を認めている」ということ。

正直、芸術はなくても社会は回っていくのだと思っている。あることで経済的にプラスアルファになることはあっても、「絶対になくてはならない存在」ではない。けれど、彼らがこうして芸術で生計を立てているということは、社会が芸術の居場所を容認してくれているということだとおもう。

生き辛さを感じるとき、しばしば芸術に救ってもらうわたしは、「芸術は社会からの休憩場所」のようなイメージがずっとある。つまり、芸術は社会のなかには入っていない。心の中でどこかずっとそう思っていたのだけど、彼らがここまで認めれているということは、社会には芸術の居場所がきちんと確保されているということ。ミロコマチコの素晴らしい作品が正式に展示として提供されていることで、「わたしが普段生活している社会だって世間だって、芸術の存在を認めている場所なんだ。芸術寄りの部分がある気がするわたしにだってどこかにちゃんと居場所があるんだ。絶対に。」ということを、非常に勝手に感じて、ひとりで救われて、そして生きていける気持ちになった。


旅行の帰り道は毎回ものすごい多幸感に包まれているし、今回もまったくその通りだったのだけど、多幸感の質がすこし違う帰路だった。それはすごくいい意味で。ただのふわふわお花畑のような多幸感じゃない、もう少し芯があって、しなやかにやわらかく存在するもの。なんでそんな場所にたどりつけたのか、帰りの成田空港行スカイライナーの中でユヌクレのパンをかじりながら考えた。

まずふたつの展示をみられたことはとても大きい。「社会に芸術の居場所がきちんと確保されていること」これを自分のなかに大きなものとして認識できたことは、ほかにないくらいの救いだった。確保されていることの認識をしたということは、確保されていないものだと今まで無意識に思っていたということ。その気づきもまた意味のあるもののようにおもう。

それから、このすべてのしあわせを自分自身の考え・行動で得たということ。これはひとり旅の最たる醍醐味だとおもうのだけど、このことからやってくる充足感は人生に深く通じていく。自分がよいと思う方向を普段からできる限りリサーチし、チェックマークをつけておく。そして旅行中、無理のない範囲でチェックマークのスタンプラリーをしていく。たまに寄り道をして予想外の出会いにほくそ笑んだりする。

旅のしかたは生き方と似ているのかもしれない。わたしは自分の嗅覚と直感を信じていい予感を探すのが好き。自分のあたまで考え行動する。たまに道に迷ったら人に聞いてみる。五感を使って目の前のことを楽しむ。そうして得たよい時間は自分の行為の正当性を確認できるものにもなる。

団体ツアーで有名観光スポットをピックアップして効率よく回るのがすきな人、ひとりで海外にいってノープランで現地のひとと交流する人、友人とホテルに泊まって楽しさを分かち合う人… うん、やっぱりそこに生き方が出る気がする。

わたしはひとりで旅行にいくたび、自分の感覚の答え合わせをしている。日常生活でもちいさな答え合わせの連続だけど、それはいうなれば練習問題だ。今日どこのカフェにいくのか、何を読むのか、いつ家に帰るのか。ひとつひとつの練習問題を短時間で真摯に検討する。そうしてたまに訪れるしらない場所で、それらの本領発揮。だいたいは大成功を収めて最高に幸せになって帰ってくる。それは日々の自分の肯定につながるし、これからの人生のおおまかな正解でもある気がする。いろいろ迷ったり悩んだり立ち止まったりするけど、わたしなりのしあわせはきっとこの進み方でいいのだ。カキモリでノート新調、俊太郎展に行くという決断、フヅクエを知った自分のアンテナ(知るきっかけとなった、勝手にファンであるお姉さんへ多謝)、ミロコマチコに感じるシンパシー、そして今回はあえて詳細を省いたけれど、大好きな街西荻窪で、大好きなひとと過ごした夜と朝。自分のしたすべての選択がもれなく満点だったこの旅がいままでの生活の答え合わせで、これからの人生への希望になっていく。日常に戻ってくるとやっぱり現実しかなくって問題は目の前にあるのだけど、27歳は希望をきもち多めにして生きていけたらいいなと、たった24時間、ひかりの速さで過ぎ去った東京滞在を終えておもった。

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