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エッセイ:ヨーロッパの片隅の鉄道の旅

今から30年程前、交換留学でイギリスの北西部に居た私は、春休みに念願だったノルウェーからベルギーまでの縦断の旅に出た。
 
当時のユーレイルパスはヨーロッパの列車や長距離バスが一年間乗り放題になる切符だった。イギリスは当時EU圏だったため、国内を少しでも長めの距離を移動すれば元が取れるくらいの便利な切符だった。
 
休みに入ってすぐに、私はバスと船を使って北欧のノルウェーに向かった。一度北海を横断してみたからだった。
 
出発が遅かったため、大学からまず電車で北の街のカーライルを目指した。クリスマスシーズンともあって、30年程前の当時はささやかなイルミネーションが町の広場を横切る様に飾られていた。石畳の広い道では子供達が興奮したかのように走り回り,疲れると大きなクリスマスツリーを背負った親の所に戻り、また駆け出して行くのを見たのが印象的だった。
 
カーライルでは地元の観光所で見つけてもらった民宿のB&Bで一泊した。
B&Bの住所を教えてもらい行って見ると、ごく普通の住宅街の家だった。ドアをノックしてみると、70代か80代と思しき男性と女性が顔を出した。部屋に案内してもらい、シャワー室の使い方を教えてもらった。
 
下の居間に行って、ご主人と奥さんと一緒によもやま話をしていると、私の部屋はもともとお嬢さんの部屋で、今はB&Bとして貸し出しているという。
 
上品な花柄のカーテンとベッドカバー、そして小さな椅子が置いてあった部屋は快適で、明日早くに出発する私は少し早めにベッドに潜った。
 
この旅行の直前まで勉強に追われていた私は、解放感もあったせいか、その日はぐっすり眠ることが出来た。
 
その次はハドリアヌスの壁を求めて、地図を頼りに牧草地を歩き回り、ハドリアヌスの毛べのあちこちにあるローマ遺跡を見ることが出来た。場所によっては私有地の中にハドリアヌスの壁が通っていることもあり、一度など農家の私有地に入り込んでしまい、そのお宅のご主人に偉く叱られた覚えがある。
 
ハドリアヌスの壁を伝い、時にはユーレイルパスが使える長距離バスも使ってイングランドの北部を東に横断すると、ニューカースル・アポン・タインという港町までやって来た。
船までの時間に余裕があったので、ここではパブで昼食を取り、地ビールも味わった。
 
イギリスでいくつか行ったことのあるパブは、おおよそアンティークと呼ぶにはどっしりとした古い磨きがかかった木のインテリアで、時代がかかった雰囲気がそこかしこにある。港町なだけに、入ったパブは船の絵や写真がぎっしりと壁に飾ってあり、雰囲気は抜群だった。店員さんは恐らくだがジョーディと呼ばれるイングランド北東部の訛りで話されている人だったようで、話していることは半分ぐらいしか理解が出来なかった。
 
約一日徒歩とバスだけでイギリスの東側に来たが、それだけの移動でも違ったイントネーションや訛りが聞けたのは収穫だった。さあ,これからが本格的な旅の始まりだという気持ちがみなぎってくる。
 
時間が来て港に行って見ると、恐らく五階建てはありそうなシンプルな船が停泊している。
船の旅は一泊二日。最安値の船の最下層にある四人部屋で三人の女性と知り合った。
「最下層だから、何かあった時は確実に死ぬね!」とブラックなジョークを交わしながら船の上にあるラウンジまで行った。
 
ノルウェーの西側を目指すこの船は、夕刻になると気が付かないうちにニューカースルの港を静かに出港していた。
 
ノルウェー国籍の船なのでラウンジにはスモーガボードの料理が出されており、私たちはわいわい騒ぎながら黒パンや、冷たく薄く切ったチーズ、茹でた野菜などを皿に盛った。船の他の部屋の人達も話に加わり、総勢十人近くでどこから来たか、今何をやっているかなどの話で盛り上がった。
 
ノルウェーの港町に到着し、電車に向かう人たちと別れ、私は作曲家のグリークが過ごしたと言われる丘の上まで登ってみた。冬の北欧は夕暮れが早く、急いで登ったもののグリークの家に辿り着く前に日が暮れてしまった。しかしそこからはベルゲンの町と港が一望でき、家々から漏れてくるほんのりとした明かりと、港の明かりで町全体が柔らかな光に包まれていた。
 
列車の時刻も迫ってきていたので大急ぎで丘を駆け下り、駅まで向かった。ここでもユーレイルパスが役に立ち、夜行列車でオスロを目指した。
 
オスロはこじんまりした街で、トラムに乗れば観光地はどこにでも行くことが出来る。
ムンク美術館では「叫び」や「マドンナ」の習作や本物を見た後、町の南にあるヴィーゲラン彫刻公園、コンチキ博物館などを見て回った。コンチキ博物館は迫力があり、コンチキ号が立ち寄った南の島の飾りや乗組員たちの持ち帰った珍しい置物などで飾られていた。
最後に立ち寄ったのがオスロ大学の講堂だ。ここにはムンクの晩年の壁画が飾られており、「叫び」や「マドンナ」などとは全く違う、天国を思わせるような明るく温かな色彩の壁画を見ることが出来た。
 
その後、ユースホステルに一泊した。オスロの郊外の高台にあるユースホステルはロンドンのユースホステルの何倍も豪華で清潔感があり、長旅の疲れをゆっくり癒すことが出来た。
ここでは日本人の宿泊客と一緒になり、喋りながら朝食を共にした。
 
旅の本番はここから。オスロ駅の深夜に出発する夜行列車で北極圏のオーレスンを目指した。 この北極圏の入り口である町で電車を乗り換えて、北極圏のクリスティアンスンを目指す。
 
リクライニング式のとても座り心地の良い座席だった。
船の旅と慣れない場所での一人歩きがたたったのか、その日の夜は朝までぐっすり寝込んだ。
 
次の日目が覚めてみると、真っ青な海が眼下に広がり、反対側は雪を抱いた高い崖が何キロにも渡って続いている。車掌さんの説明では、フィヨルドに沿って走っている所だという。
フィヨルドは壮大な景色で、広い水面の遠くにはやはり雪化粧をした崖が何十メートルにも続いていて、これが氷河の浸食で出来たことに納得がいった。
 
オーレスン駅から更に北を目指そうとしたが、駅員さんからは「持っている時刻表が古いようですね。今の時期はここから北に行く列車はありません」と言われた。
 
がっかりしたが,とにかく次の列車に飛び乗り、再度一晩かけて南を目指した。
日本人が珍しかったのか、近くに座っていた小学生と思わしき兄弟たちが一生懸命に話しかけてくる。その子達の親ごさんが英語で通訳をしてくれた。どこから来たのか。列車で何をしているのか。どこまで行くのか、オスロに行ったか。何を見たか。ノルウェーで一番面白かったのはどこか。子供たちの好奇心は尽きることが無かった。
 
夜も更けてきたので,私たちはお休みを言うと、各座席の周りに巡らされているカーテンを引き、オスロまでの道のりをぐっすり眠った。
 
欧州はとにかく陸続きで、今いるノルウェーの北極圏ギリギリの町から、南ヨーロッパまでは電車で行くことが出来る。
 
オスロからスウェーデのストックホルムまでは電車ごとトンネルを通過し,デンマークに出る。この間、パスポートチェックは無かった。
 
列車がデンマークに入ると、日中だったせいか電車の窓の外は見渡す限り広い草原が広がっている。天気も良く、青空と草原の鮮やかな色が印象的だった。
 
そこへ切符切りの叔父さんがやって来た。
笑顔を絶やさずにそれぞれの乗客を回ると、丁寧に切符を確認していく。
 
私はユーレイルパスを見せた。切符切りの叔父さんは「ああ!」という声を上げたかと思うとそのまま私にレイルパスを渡してくれた。
 
草原がはるか彼方に見える風景に飽きてしまったのだろうか、ふと睡魔が襲ってきて私は鞄をしっかりと自分の脇に抱え,うとうとと寝入ってしまった。
 
次に覚えているのは列車がドイツに入った時だ。
 
まるで軍人の様な眼光の鋭い係官が入ってきて、笑みも漏らさずこちらを鋭い目で見ると、私の持っていたユーレイルパスに一瞥をくれ、パスポートを出すよう指示した。パスポートを見せると、係員はそのまま次の乗客へと移っていった。

ドイツの列車の乗務員はがしっとして肩に腕章のある制服に身を包み、まるで軍人かのようなきびきびとした動きでパスポートと乗車券の確認をしていく。乗務員さんのキャラクターにもよると思うが、デンマークとドイツでは制服の違いのせいか、国境でのチェックは随分趣が異なるものだと改めて思った。
 
4人掛けの席に座っていたせいか、周囲にいる人たちが色々話しかけて下さった。
何処に行くのか、今ヨーロッパで何をしているのか。
 
大学の春休みの休暇中だと答えると納得してくれると同時に、高齢の方々がとても心配してくれた。女性一人での旅は危険が伴う。中にはお守りをくれる人や、「お腹がすいたら齧ってね」とリンゴやビスケットをくれる人までいた。親切な乗客達に助けられ、私は列車の旅を続ける位事が出来た。
 
ドイツのケルンで列車を乗り換えて、次の目的地であるブリュッセルを目指した。
当時留学先でEUの政治学を専攻していたので、EU本部は何が何でも見ておきたい場所の一つだった。出来ればその周囲を歩いて、雰囲気だけでも味わいたかった。
 
列車がブリュッセルに着いたのは夜の22:00頃。辺りはとうに日が暮れ、とっぷり暗いなか、その日のために予約していたユースホステルまで行かなければならない。
ブリュッセルはフランス語圏とオランダ語に似たフラマン語圏に分かれている。
目指すユースホステルはブリュッセルのフランス語圏にあった。
 
私は駅前の看板を良く確かめてからユースホステルに向かったつもりだったが、フラマン語圏に入ってしまったようで、周囲からは「気をつけて!何背負っているの?」と声がかかる。背負っていたバックパックを狙われたりしたら困る。
 
私はとにかく歩いて恐らくこの近くだろうという所まで行った。しかしユースホステルに近づくにはまだ先があるように思えた。
 
すると目の前に、建物の門を閉めている制服を着たお爺さんの姿が飛び込んできた。
この地域で働いているのなら、地理にも詳しい人に違いない。
私は旅行に出かける前に叩き込んできたフランス語の単語でお爺さんに話しかけた。
 
「ボンソワール,ムッシュー。 ジュシェルシェユースホステル ケルエスト?」
 
正しいフランス語かどうか全く自信が無かったが、お爺さんはユースホステルの場所が書いてある地図を見て、身振り手振りを加えて場所を説明してくれた。分かった言葉は「橋」と「左」だけ。あとは橋をくぐって左に曲がれ、というジェスチャーだった。
 
「メルシー、メルシーボークー」
 
そう言っておじさんに礼を言うと、「橋」を目指して歩いた。
 
橋は確かにあるのだが、その先が分からない。幾つか小道を見ているうちに、神の助けか「Youth Hostel」の看板が目に飛び込んできた。
 
急いで中に入り、昨日までにチェックインする予定だったと告げると、受付の人が安堵した用に行った。
 
「ああ,良かった!駅からここまでってちょっとわかりにくいんですよね。大丈夫、ベッドの空きはありますよ」
 
そう言うと部屋番号とベッドの番号の書かれた紙を手渡すと「ゆっくり休んでね」と言ってくれた。
 
何とかベッドによじ登ると、そのままスイッチが切れたかのように私は熟睡した。
 
翌朝、目が覚めた時は意外と早く、6:00台にはもう目が覚めていた。
 
ユースホステルの朝食会場に行くと、コンチネンタルの朝食が用意されていた。
 
小さなクロワッサンとコーヒー。周囲には修学旅行で来ている学生さん達が大勢朝ご飯に取り掛かっている。
 
二日前の電車での長距離移動の間、水とリンゴ以外口にしていなかった私はクロワッサンだけでは足りず、とりもなおさずブリュッセル駅を目指した。駅なら何か食べられるものを朝早くから売っていると思ったからだ。
 
駅には幾つか店があり、私はピザ屋に行って注文をした。
 
「着いたばっかりかい?」
「いや,コンチネンタルの朝ご飯じゃ足りなくて」
「それじゃたっぷり食べていきな」
 
そう言って、トウモロコシをちりばめたトマトソースの大ぶりのピザを皿にのせてくれた。
 
ピザの一口一口が身に沁みるほど、美味しかった。空腹に勝る調味料は無いのか、はたまたこのピザ屋のピザが最高に美味しかったのかは、今となっては分からない。
 
しかしノルウェーからブリュッセルの間まで殆ど食事をとっておらず、また寒さも影響したのか、力が出ない。その上熱っぽくなってきたので、EU本部の見学は泣く泣くあきらめてユースホステルに戻った。
丸一日寝ていて体力が回復し、私はベルギーの港町を目指して電車に乗った。
この鄙びた港町からイギリス向けの小さなボートが出ている。
 
 
ベルギーの港から数時間でイギリス南東部の港町に到着した。
 
国境越えは呆れるほど簡単で、ベルギーから出るボートに乗るときにスタンプを押してもらう事と、イギリスについて「休暇は楽しかったですか」の一言で入国スタンプを押してもらえるのは、なんだか拍子抜けするぐらい簡単に済んだ。ほんの数日の旅だったが、終わってしまえばあっという間だった。
 
お土産を買ったりする余裕のない貧乏旅行ではあったが、地元の人々とほんの少しではあるが電車やユースホステルで交流できたのは今でも財産の様に記憶残っている。



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