昔語り:吊り目の日本人、ロンドンの街角で知恵を授かる
約40年前、私は学校からロンドンの地下鉄の駅へ向かう途中だった。
当時、学校で数人の人が私たち日本人を「吊り目」などと呼び始めていた。その人たちは、典型的なロンドンのやり方で、人の耳元にそっと囁き、他の人には聞こえないように差別的な言葉を伝えてきた。
スーツを着た大人たちが私の耳元に差別的な言葉を囁いてくるのは、ほとんど日常的なことだ。今から40年近く前のことで、今では状況が変わっているかもしれない。
当時通っていたインターナショナルクスクールでは初めて人種差別を経験した女の子たちがいて、深いショックやパニック状態に陥っていた。私は彼女たちを慰め、感情的な支えを与えながらも、自分自身の負担が大きすぎると感じ始めていた。毎日誰かが泣き、私に話を聞いてほしいと頼んできた。
ある日、一人の女の子が教師に学校の生徒からの差別発言を報告した。しかし、調査の進行は遅く、私は主犯格の少年を特定しようとしていた。その男の子は、私が2学期以上学校に通っているにもかかわらず、一度も見たことがない子だった。
ある日、地下鉄での差別発言が特にひどかったため、私は急いで学校に向かった。「吊り目」という言葉を使った差別が生徒たちからも出ていることに不快感を抱きつつ、新しい被害者がまた出るのではないかと心配していた。
学校では気分が晴れず、また別の日本人が泣くのではないかと、丸一日、内心落ち着くことが出来なかった。
帰宅途中、白人男性が私に小石を投げつけてきた。さらに、地下鉄の駅に向かう道中では、黒人男性が歩きながら私にバナナの皮を投げてきた。
私はついに限界を迎え、「ふざけんな!」と叫んだ。その男性は振り返り、驚いたように私を見つめた。
その時、後ろから別の声が聞こえてきた。歩道に座っていた2人の黒人のおじさんのうちの1人が、「なんでそんなに怒ってるんだ?」と言った。
私は、学校でのこと、地下鉄でのこと、駅でのことを説明した。
彼は頷きながら、「典型的だな。でも心配することはない。冷静になって流してしまえ。あいつらにはあいつらの問題があるんだ」と言った。
「でも、どうしても黙っていられない時はどうしたらいい?」と私は問い返した。
おじさんは「その時が来れば話せばいい。その時が来ればな」と言った。
私はおじさんの隣に座り、当時のロンドンでの「人種間の序列」について話した(1980年代の終わり頃の話だ)。
白人は黒人やアジア人、東洋人を見下す。
黒人はアジア人や東洋人を見下す。
アジア人は東洋人を見下す。
では東洋人は?誰も見下さない。当時、ロンドンにはこれ以上小さな人種的マイノリティがいなかったからだ。私たちも暴動でも起こせば気分が晴れるだろうか、と冗談めかして話した。
おじさんとは肌の色についても話した。日本人は日焼けすれば、街で見かけるインド系の少年や少女よりも濃い色になることもある。でも、イギリスの天気は曇りがちなので、この国で日焼けする機会はほとんどない。
おじさんは、「でも夏が終わればまた白くなるだろう?俺たちも冬には少し色が薄くなる」と言った。
その後、お互いの手のひらを見せ合ったた。私の手のひらは黄みがかったピンク色で、彼の手のひらはピンク色でした。私たちは「手のひらの色は共通点がある」と結論づけた。
彼は、「神が君を試しているんだ。この人種問題をどう乗り越えるかをね」と言った。
私は、「ゴッドでもアラーでも神でも、どんな神様であれ、もうこんな馬鹿げたことはやめてほしいです」と答えた。
彼は再び、「冷静に、そして流してしまえ。戦いは不要だ」と言った。
「差別発言に言い返すのもダメですか?」と私は尋ねた。
彼は頷いた。
私は数日間、その約束を守ることができた。でも心の奥底では、言い返したい自分がいた。
数日後、学校はすべての生徒の保護者に手紙を送りました。その中で、「学校での人種的対立が解決された」と伝えられていた。
しかしその後も、日本人や日系アメリカ人の少女たちは、ロンドンでの差別的な態度について話し続けていた。
その頃、また白人の少年が私の耳元で囁いた。「それでも俺は東洋人が醜いと思う」と。
その時、私は「白い豚」と呼び返したことを覚えている。今思うと、私の言葉選びは正しかったのだろうか。
それでも、あの路上で出会った男性の言葉は今でも心に残っている。
「冷静になって、流してしまえ。戦いは不要だ。」
イライラするような状況に直面するたび、彼の言葉を思い出す。それは40年近く前の出来事だが、その言葉は今でもはっきりと思い出せる。