エジプトの旅(2)
「○○○へ行こうよ」「いやや、ひとりで行っといでよ」。 夫とのいつもの会話をして、今回はエジプトツアー一人参加となった。
壮大な遺跡に圧倒される毎日であったが、はじめは<この国における宗教>を中心に旅の記録を綴ってみた。
これまで私はエジプトという国は全くイスラム教の国と思っていたのだが、20%のキリスト(コプト)教徒が80%のイスラム教徒と共存していて「無宗教者は一人もいません」と現地ガイドさんが誇らしげに言うのを聞いて、旅の初日から私の知識の無さを知る思いであった。
イスラム過激派の不安を除けば比較的犯罪が少ないのはその辺に理由があるのかもしれない。
コプト教会はマルコによって宣教されたキリスト教会でギリシャ教会等と共に東方教会といわれるキリスト教である。キリストは神の子でなく神そのものだというのがコプト教の教義だという。修道院の始まりはコプト教会にあったそうだ。ローマによる迫害から逃れて砂漠地方へ逃げ込んだキリスト教徒達は、エジプトの古い遺跡に隠れたり、そこを礼拝の場としたりしている。高校の世界史で、カタコンベにキリスト教徒が集まって礼拝していたと学んだ記憶があるのだが、カタコンベとは数千年前の地下墓地である。その一つを見学したが、それがキリスト教徒が使ったものかどうかはさだかでない。何層にもなった地下深く築かれた墓地は些か不気味でもあった。
ずっと南方のアスワンの神殿にエジプトの護符アンクに並べて十字架の印が彫り込まれていたが、これによって明らかにこの遺跡が教会として使われていたことがわかる。またラムセス四世の墓の壁画の上に稚拙な聖画が描かれていたのも、ここが礼拝の場として使われていたことを示す。
エジプトにおけるキリスト教の歴史は聖家族のエジプトへの逃避から始まると言ってもよいと思うが、コプト地区にその聖家族の隠れ家というのがあってびっくりした。現在その上に教会が建てられていて、聖家族の隠れ家はその地下室にある。数段下がった所に入口があって、その奥は地下水のために水浸しになっていた。見学したのは日曜日で礼拝の終るのを待って入ったのだが,信者の男女が聖画の描かれたタピストリーにじっと手を置いたり口づけしたりしながら祈っていた。
この国ではキリスト教徒もイスラム教徒も外観は全く変わらない。女性は概ねスカーフを着けているし、年配の女性は頭のてっぺんから裾まで黒い衣装をすっぽり纏っている。ガイドさんの話ではキリスト教徒は腕に十字架の刺青をしているのだそうだ。
イスラム教が始まったのは七世紀初めだから、キリスト教よりも新しく、十二世紀頃まではキリスト教が多数派だったらしいのだが、現在では初めに書いたように20%になっているのだという。
それではキリスト教が始まる前の古いエジプトはどのような様子だったのだろう。それをお話するために、今回のエジプトの旅をざっと辿ってみようと思う。
まずギザに泊って周辺のピラミッド群やスフインクスを見物した。
エジプト最大のピラミッドは紀元前2600年頃クフ王の造ったもので、王の即位と同時に建設が始められた。
自分の墓を生存中、それもかなり若い時から造り始めるというのは現代人には理解し難い事だけれど彼らの信仰によるものだ。多くの奴隷が酷使されたとこれまで一般に考えられていたが、碑文が解読されるに及んで、ナイル氾濫期の失業対策として農民達が進んでピラミッド建設に参加したらしいと近頃の定説になっているとのこと。
スフインクスはもう少し遅れて造られた。ガイドさんがバスの中で「ギザのスフインクスの髭はどこにありますか」というクイズをだしたが、正解は顎の下でなく、大英博物館である。何しろイギリスは発見されためぼしい物は皆持って行ってしまったそうだ。ナポレオンがイギリスに敗れるとフランスがエジプトで修復し保存していた物までイギリスに持って行ってしまったのだと、ガイドさんは憤懣遣る方ない様子だった。そういえばナポレオン軍が発見しエジプトの古代文字を解読する糸口となった世界の至宝ロゼッタ石も大英博物館にある。
それから航空機でルクソールへ南下し、ギリシャのアテネの神殿も影が薄く思えるような物凄い大神殿を見る。この中にはラメセス2世の像があるのだが、もともとは、ツタンカーメンの像だったのを、ラメセス2世が自分の像にしてしまったということだ。
翌日、王家の谷、王妃の谷、更に数年前テロで多くの観光客(日本の新婚旅行のカップルも)が犠牲になったハトシェプスト女王葬祭殿を見学。あの事件以後、各地に銃を持った警官がいて、治安は良さそうだ。国家予算の40%を観光収入に頼っているエジプトはあの事件で非常に困ったのだそうだ。
ここにヘナの壁画があった。
航空機で更に南下。アスワンハイダムに沈む運命をユネスコによって救われ移築されたイシス神殿を見る。更に南のアブシンベルへ行き、これもユネスコによって移築されたラムセス二世の大神殿と小神殿を見て南下を終る。略エジプトの最南端近くまで行ったことになる。
ピラミッドは現代の技術を以ってしても建設に数十年かかると聞いていたが、イシス神殿とアブシンベル神殿の移築を見たとき、やはり現代の技術も凄いと思った。殊にアブシンベル神殿は巨大な岩山全体を動かしたのだから。
古いエジプトは多神教でイシス神もその一人、オシリス、アテン、ラーなどの神々の他に禿鷹や黒犬、鰐まで神とされている。
ハトシェプスト女王は自らを雌牛神の子として王位についている。ただ一人アケナテン王は宗教改革をし絶対唯一の神アテン神のもとで全ての民は平等であると説き、壁画には彼と王妃ネフェルティティや子供達との平和な家庭が描かれている。しかし次のツタンカーメン王の時代に全く元の多神教に戻ってしまい、アケナテンの王宮も神殿も廃墟となってしまった。まさに世界思想史における画期的な時代であったと現代の学者は考えている。このような事が古代文字の解読で分かるのだから驚きだ。
カイロに戻って考古学博物館を見学する。ミイラ室には12体のミイラが置かれていて、アブシンベル神殿を建設したラムセス二世が金髪で横たわっているのが不思議な気がした。ツタンカーメンの宝物の部屋で胸が一杯になる。この素晴らしい細工の数々をなした人々の末はどこへ行ってしまったのか。
最終日、午前中オールドカイロで、前述のコプト教会やコプト博物館を見学し帰国の途についた。