ブータン門を越えて(2)
5月24日 ブータンは海抜200mぐらいからヒマラヤの7500mあたりまで広がる山国で、ブータン門から入ると風景がすっかり変わって、バスはちょっと信州のような山道を登っていく。インドとは、空気が全く異なる。
ブータン(THE KINGDOM OF BHUTAN)は「地の果て」という意味のインド語からきているらしく、人々は自分達の国をヂュルック・ユル(穏やかな龍の地)と呼ぶ。それはオリンピックで<JAPAN>のプラカードの元に入場しても、我々は自国のことを日本というのに似ている。下手な概念図を見ていただくとブータンの位置がわかると思う。
度重なるゾン(寺院と王宮を兼ねたもの)の火災や地震のため古い文書はことごとく失われているが、747年パドマサンパヴァが虎の背にまたがってチベットからやって来たという伝説は、虎はともかくとして年号まであるのだから、単なる伝説ではないのだろう。日本の九州の約 1.1倍(ブータン王国名誉領事館制作の資料による)の国土は、海抜200mから7500m、首都ティンプーは標高約2500mである。人口は約60万。国花はかの<青いけし>だが、残念ながら季節が遅くて見ることは叶わなかった。はっきりとした四季のある美しい国である。殊にティンプーやパロのあたりは日本の信州の山村のように懐かしい風景が広がる。人々は仏教の厚い信仰に生きている。治安がよいのもそれが一因かもしれない。ただしインド国境の町プンツォリンは夜9:30以降外出禁止という。しかし国全体は険しい山々に守られて、ヨーロッパの大国に植民地化されることなく今に至っているので、穏やかな国民性はそのことに由来するのかもしれない。外国に支配されなかったタイ国の人々が優しく穏やかなのと同じ理由だろうと思う。ひょっとして日本人にしたたかさが欠けるのも同じ理由かな?服装は日本の着物に似ていて、顔立ちも日本人に非常によく似ている。外出時は民族衣装を着るようにという国王の政策によって、この国の独自性が大いに高められていると思われる。
言語はゾンカ語と英語。
就学率は40%。(義務教育でない)
ブータンの特徴的な家が見えてくる。材木が豊かにあるから一般の住居はすべて木造漆喰塗りである。建築中の家もいくつか見た。窓枠がすべて手の込んだ同じ形にカットしてあるのは、たぶん既製品なのだろう。
谷を越えて経文の印刷された幟が張られているのは、氾濫を防ぐお守りだろうか。
パロの素朴な(いいねえ)国立博物館を見学し首都ティンプーに夕方到着。このルート、ブータン門からここまで昔は5日かかったそうだ。
5月25日 ツェチュの祭りを観光客用に再現したものを見るために出発したが、途中でアーチェリーの全国的な大会の準決勝をしていたのでしばらく見学する。アーチェリーはこの国の国技で唯一のオリンピック参加種目である。
その後、郊外の広場でパロの春祭り・ツェチュの踊りを見学した。観光用に再現されたものである(本来、三月末)。踊りはいろいろな意味を持っている。パドマサンヴァヴァをたたえるもの、狩の踊り、仮面ダンス、日本の剣舞のような衣装の踊り等々。
それからまたバスに乗り、タシチョ・ゾン(ゾンは城と寺を兼ねたもの)を見学、内部は脱帽、写真撮影禁止。国立図書館、メモリアル・チョルテンを車窓から見てから、レストランで昼食。ところで、どこのレストランだったか記憶がはっきりしないのだが、旅行社から指示されていたのだろう、日本人向きの味付けが、なんとも薄味で、パンチの利かない焼き蕎麦に胡椒をうんとふりかけて食べたことがあったっけ。いくらなんでも日本人、あんな水くさいのは食べませんよ。午後はバザール見学。
顔も衣装もブータンの人でない。アラブ風の衣装などと粗末な小屋。ひょっとしてこれがブータンにおける差別の片鱗なのかも(文末参照)。
5月26日 古都プナカへ。
3100メートルのドチュラ峠は雨で、ヒマラヤの展望を期待したのに残念だった。
峠を下ると段々畑の親しみのある風景が現れ、川向こうにウォンディー・ポダン・ゾンが美しい姿を見せる。川のこちら側、恐らく向こう側も見事なサボテンの花盛りである。しかしそのとげは見たこともないほど鋭い。私見であるが、昔、チベットなどの侵入からゾンを護るために植えられたのではなかろうか。鉄条網より恐ろしいサボテンなのだ。
橋を渡ってウォンディーの村に入る。ドイツのマルクト広場のように、広場の周りを商店が取り囲んでいる。ブータンではめずらしい形態だとのことである。
プナカゾンは ポ・チュ川と モ・チュ川が合流するところにある。先ず外から見て、ぐるっと回ってゾンに到着。お堂内部の撮影はできないが、華麗な彫刻のある欄干や窓など中庭での撮影は出来た。お堂の中でガイドのチェンチョウさんがお祈りをしてくれた。ゾンの内部へ入る時、チェンチョウさんは必ず長い房の付いた大判の白いストールを着ける。これが正装でストールの色は身分によって決まっている。白は庶民、僧は赤、王様は黄色。
夕食の時現地手配会社のゲンポ社長から一人一人に、Tシャツがプレゼントされた。包み紙が和紙風のすばらしい紙だったので、丁寧に持って帰って墨絵を書く人にさし上げた。
プレゼントする時はこのような紙で包むのが礼儀だそうだ。この辺りも日本に似ている。
ブータンでは一家に一人男児が出家する。成人して適性がなければ社会に戻る例もあるらしいが、3歳の僧もいると聞く。
5月27日 三泊したティンプーを後に再びパロに向かう。パロゾンの手前で、日本と少しも変わらぬ田植えをしていた。しかし紐を引っ張ってやらないから、植えた後は揃っていない。田植えは、ツアーの予約に合わせているようで、一種のショーだろう。
標高2300メートルのパロの町ではちょっと走ると息が上がる。午後、ここからさらに500メートルの高度差のある展望台に登って、タクサン寺院を遠望した。お天気がよければ馬で登る予定だったが、小雨がずっと続いていて危険なので徒歩で登る。ほんの短い時間、僧院が雲の中から姿をあらわした。まさに今回の旅のハイライトであった。
山から下りる途中で地面に古い仏具や織物、アクセサリーなどを広げて売っている女性がいた。同行のNさんが「わたしらが買わな、買う人いてないからかわいそうや」と座り込んだので、それもそうだなと私も古いネクレスを買った。登る時にはこの人達いなかったから、私達の姿を見て、店を広げて待っていたのだろう。
5月28日 パロ空港から空路、もう一度カルカッタへ戻って、国立博物館を見学。地下鉄に乗って、雑踏の中を歩いたりした。今朝の新聞の見出しを見ると、バス事故で46名が亡くなったそうだ。日本では全く報道されていないので、心配はしていなかったらしい。
5月29日 帰国の途につく。
帰国後あるホームページで、次のようなことを知り全く驚いた。
私達の旅は、言うなれば釜が崎のようなところは近づかない<観光客>に過ぎなかったのだ。低開発国の観光というのはこのような面があるのだと考えさせられた。
(引用)ブータン国民の約5分の1にあたる12万人の 南部に住むネパール系ブータン人を、強硬な同化政策や人権抑圧で国外(ネパール、インド等)に追いやったブータン政府の態度は、理不尽で依然頑なである。
ネパール系の人達に犠牲を強いることによって、あのユートピアのような国があるとは・・・。
おりしも今日6月20日は世界難民の日である。