「正しく生きるより楽しく生きる」友人の急逝を受けて改めて感じた想い
昨日、同い年の友人が急逝した、という連絡を共通の友達からもらった。
今日から一定期間、対面できるということで、すぐに会いに行ってきた。
学生時代から心臓が弱いと言っていたが、40を過ぎるまで特に何もなかったので、このまま過ぎていくと思い込んでいた。
私に限らず、みんなそう思っていた。
そんな中での訃報だった。
とてもいいやつで、家族思い。
いろいろなことに一生懸命で、馬鹿話もよくした。
今日、一緒に行ける友人で集まり、会いに行ってきたが、霊安室の彼は、心臓が、すーっと止まったことがあってか、本当に寝ているようだった。
みんなで「起きてもいいぞ、飲み行こうぜ」などと話しかけた。
残念ながら返事はなかったが、なんとなく、室内の空気が和らいだので、伝わっていたのだと思う。
挨拶を終えてから、みんなで酒を酌み交わしながら、改めて「生きる」ということを考えた。
「自分は、どうありたいのか」
「会社は、どうありたいのか」
人間も会社も、ゴーイングコンサーン。
厳密には人間には寿命がある。
会社だって、事業には寿命があったり、ときには終わることもある。
が、終わることを前提には、基本的に生活しない。
私たちは、ビジネスをするのか、仲間とわいわいするのか、勉強をするのか、周囲を気にしながら生きるのか、周囲を無視して生きるのか、家族に時間を使うのか、自分に時間を使うのか、安定をするのか、挑戦をするのか…
すべて、同じ「時間」を使いながら過ごしている。
どうせなら「ありたい状態」で、たくさんの時間を使いたい。
「ありたい状態になるために」ではなく、「ありたい状態になった状態」で、使いたい。
自分はもちろん、私にかかわる人たちにも、私と関わる企業にも、そうした状態であるための手伝いがしたい。
そうすることで、私の周りに笑顔があふれ、企業とその従業員に笑顔があふれ、私も笑顔があふれる。
私は、正しく生きる、より、楽しく生きたい。
これは、先日、私の友人に聞いた言葉だけれど、そうだな、と感じた言葉。
「正しく生きるより、楽しく生きたい」
私が楽しい、と感じる瞬間は、人を笑顔にした時。企業の方が笑顔になったとき。なので、人を笑顔にしながら生きたい。
笑顔に包まれながら過ごしたい。
友人は、2年ほど前から、リモートで働いていたという。
そういう働き方ができるようになった、というのはやはり、社会において良いことだ。
家族に包まれた2年間だったそうだ。
それなら「俺たちにも言ってくれたらよかったのに」という話をみんなでしたが、彼はそういうことを言わないタイプだった。
それでも、ほんとうに穏やかな顔で、寝ていた。
闘病も大変だったと思うから、お疲れさま、ということも伝えた。
彼は、家族に見守られながら、その一生を終えたそうだ。
友人にとって、いろいろな想いはもちろんあったと思うが、きっと、現状で可能な限り彼にとって、穏やかにその時をむかえられていたら、とは思う。
きっと、そう遠くない将来に、俺たちも行くから、向こうでまた会おう、という話をして、帰路についた。
おやすみ、また会おう。