4月2日はプリンの日
4月2日、今日は祖母の命日。
富山で生まれ、西宮で戦禍の中青春を過ごし、大分に移り住み、広島に嫁いだ祖母。
4人の子どもを育てつつ、厳しい姑のいる商店の嫁として店のこと、家のこと、ご近所付き合いと、祖母には自分の楽しいときはあったんだろうかと思う時がある。
いつもニコニコして、いつも鼻歌を歌っているような人だった。
小学校の夏休みの宿題は、姉も私も、絵に書道に自由研究、工作と、6年間祖母が手伝ってくれて、本当に2人とも山ほど賞状を頂いた。賞状を貰わない年はなかった。
姉も私も祖母が大好きだった。仕事のある両親より、家にずっといて子守りしてくれる優しい祖母とは日頃より過ごす時間が多かった。
土曜のお昼は祖母の作るべちゃべちゃ焼き飯。姉と2人で、またあれを食べたいねぇ、と話す。美味しいとか美味しくないとかじゃない懐かしい味。
夏休みのお昼ご飯はお素麺が多かった。祖母のお素麺のおつゆに入れる氷は、乾燥海老と干し椎茸で取った出汁を凍らせてあってすごく美味しかった。なんであんな手間なことをしていたか知らないが、当たり前に常備されていて夏が来たなあと思わせてくれていた。
すごく小柄で、私が赤ちゃんの頃から既に腰がすっかり曲がっていた。多分、育ち盛りの頃にあまり栄養がよくなかったことに加え、4人の子どもを続けて産んだことが原因では?と言われていた。現に同じような青春を過ごした未婚の妹3人衆は、未だに背筋がしゃんとしている。ま、関係ないかもだけど。
親族は富山や東京、北海道に多く、妹たちはあちこちで開催される親戚の集まりにもよく出向き旅行慣れしている老人だが祖母が最後に旅行したのはいつのことだろうか。
祖父は朝起きたら旅行に出かけていない、とかよくあったし、伯父が仕事でアメリカにいた時には遊びに行っていたが、祖母はそんな時も家にいた。
別に家が好きだったわけじゃないと思う、思うけど、では祖母は何か楽しいことあったかな?
小学生の頃、「おばあさんはいつも家にいる」という内容の作文を書いたことがある。それくらい本当にいつも家にいた。
私が大学進学したときにはよく手紙をくれていた。「餃子ちゃんが卒業するまでは、お店頑張ろうかな」と書いていた。
しかし私が大学3年の秋、家の階段から落ちて首の骨を折る大怪我をして、120年近く続いたお店を畳んだ。
半年以上の入院。当初、お医者様からは、もう半身不随になることを覚悟するようにと言われて私は泣いた。
病室の祖母は「おおごとしちゃった。おトイレ近くにあった?」と心配していた。先生の話を聞いて、もう祖母が自分の足でトイレに行くことができないかもと知っていたが「うん、すぐそこだったよ」と絞り出すような声で言うのが精一杯だった。
母の意向もあり祖母には病状を伝えず、本人は早く回復しなきゃ!と頑張って奇跡は起きた。再び歩行器を使って歩けるようになった。もし、もう歩けないかもしれないと知っていたら頑張れなかっただろう。知らなかったことが、大きな勝因だったと今でも思っている。
退院し家に戻り、これまで通り、とはいかなかったが祖母はデイサービスに通い始め、また頑張った。
もともと手先が器用だった祖母は、デイサービスで塗り絵にハマっていた。とても丁寧に塗られた塗り絵、配色は私から見てもかなりセンスも抜群だった。知らぬ間に、展示会に出してもらったこともあったようだ。
祖母はいつでもニコニコ頑張っていた。
その頃の手紙には「ばあさんもデイサービスで頑張っています。餃子ちゃんもお仕事頑張ってください。帰った時にまたお話聞かせてね。」と書いてくれていた。
怪我の影響でニョロニョロの文字しか書けなくなっていたが、頑張って練習してまた前のように書けるまでになっていた。
私の祖母とは思えない努力の人だった。
そんな祖母に、癌が見つかった。
祖母は何か悪いことをしたのだろうか?こんなに頑張って頑張って頑張ってきた人に次から次へと試練を与えなきゃならないのか?腹がたって、でもまた私は泣くことしかできなかった。
すでに高齢で、怪我のこともあり体力はもうない。手術をして弱るのか先か、進行の遅い癌で弱るのが先か。もう痛みが出た時だけ痛み止め処置することになった。
しかし、怪我をしたとき神経に触れていたせいなのか、お医者様は痛いはずだと言われるなか、我慢しているようには見えずケロッとしていて「本当に痛くない」ようだった。多分、あの怪我の「おかげ」だった。
一時は年を越せないかもしれない、と言われた時期もあったが、相変わらず本人には告知せずまた乗り越えることができた。年が越せないかも…と用意した年賀状をギリギリまで出さずにいた祖父だったが、結局その後、祖父の方が先に逝ってしまった。
祖父が亡くなった日、祖母はデイサービスに行っていた。祖父は入院先の病院で亡くなり、準備に忙しいからと施設に連絡だけ入れ祖母には知らせず過ごしてもらった。
帰宅した家には、いないはずの孫、忌中の張り紙に鯨幕。こんな形で配偶者の死を知ることになるなんて可哀想にも思ったが、早く帰宅しても私ではお世話できなかった。
長年を連れ添った夫婦の最後の別れがこんなにあっけないこともある、と知った。
泣きじゃくる私の手を黙ってしっかり握ってくれたこと、私は忘れない。本当に泣きたいのは祖母だったかもしれないのに、静かに俯き、涙を見せることはなかった。
祖父の死からしっかり一年を待ちそこから間も無く、祖母は息を引き取った。随分と迷惑をかけられた祖父より一年長く生きたのは祖母の意地だったように思う。
最後の数ヶ月はろくに食事も取れず、母が差し入れしていたプリンで数ヶ月を生きた。
それを聞いた伯父が美味しくて有名なプリンを買ってきたりしていた。でも、祖母はプッチンプリンみたいな喉越しの良いプリンを好んだので良いプリンは私たちの口に入った。
私がたまにお見舞いに行った時介助でプリンを食べさせようとしたら、「夕方みっちゃん(私の母であり祖母の娘)が食べさせてくれるけ今はいい」と言っていた。
母は別に食べていいのに、と言っていたが、祖母はその時間が楽しみだったのかもしれない。
危篤の連絡を受け、慌てて帰省した。意識はなかったが私が着いて1時間くらいして眠るように亡くなった。私は初めて人の死を目の当たりにした。
亡くなった時、臨終に立ち会ってくださった看護師さんが、泣き笑いで、私のこと見て旧姓であら、〇〇さん!と覚えてくださってたんです。と言っていた。我が家は文具店もやっており、町の子供達はみんなお客さんだった。その看護師さんは地元で結婚し、看護師をされていた。お店に通っていた少女時代は数十年前だったのでビックリしだけど嬉しかった、と教えてくださった。
お嫁さんである伯母は、前日お見舞いに来てくれて、遠方にある自宅に帰宅途中危篤の連絡を受け引き返してくれた。間に合わなかったが、私は遠くから何度もお見舞いに来てくれていた伯母に感謝していた。でも伯母は、出来るなら間に合いたかった。とぽつりと言っていた。こんなに優しい方がお嫁さんに来てくれてよかったね、と思った。
葬儀後、今週お見舞いに帰るつもりだったのに間に合わなかった、とおっしゃっていた親戚のおじいさんは、金銭的な理由で進学を諦めたとき我が家から学校に通わせてもらって、姉さん(祖母)がお世話してくれたこと今でも感謝していると、もうまじで何年前の話だろうことを何度も何度も泣きながら話してくださった。
祖母は楽しい人生を送れたんだろうか。
私には分からない。
だけど、祖母を思って泣いてくれる人が、たくさんいた。亡くなって初めて、私の知らない祖母の顔が沢山あることを知った。人に恵まれた素晴らしい人生だったんじゃないかな、と勝手に思っている。
母の提案で、4月2日、近しい親族はプリンを食べて祖母を弔う日にしている。
いつかきっと忘れてしまうような祖母の晩年。覚えているうちに書き残したくなって、今日の独り言はとっても長くなってしまった。
おわり