宮崎駿といういきものへ、愛を込めて。
最近、宮崎駿に夢中である。
僕は、とりたてて彼について、またはアニメーションについて詳しいわけでは全くない。
ジブリ作品で王道なものはもちろん見ているし、大好きだが、「ナウシカ」前の作品や「毛虫のボロ」「おもひでぽろぽろ」などの作品についてはまだ触れていないのが現状であります。
だのに、作品を見るわけでもなく彼のインタビューやドキュメンタリー、また岡田斗司夫が彼の作品について解説している動画なんかをYouTubeで見あさっている。つまり彼の人間性に魅かれて/当てられているのだ。
宮崎駿といえば「ジブリの人」の意識が強いかもしれないが、彼の生活をみていくと、ジブリ作品に繋がる、下手したら作品たちよりも濃いその人間性や哲学、変態さを強くくみ取れる。
ここからはわたしの独りよがりの「宮崎駿」像をすこし話したい。
風の帰る場所
風ってどうやって描くんだろう。
と子どもながらに思ったことがある。透明だし書けなくないか、と。
最近になって一番に思い浮かんだのがやはりジブリ作品で描かれる風だった。トトロや風立ちぬ、もののけ姫なんかでも分かるように彼の作品にはよく風が吹く。そのアニメーション的な技術はのすばらしさは言うまでもないが、その風の、絵というよりメタファー的なものに魅力を強く感じた。
そんなこんなもあり一年ほどまえ、ほぼタイトルで購入したこの本、「風の帰る場所」。
これは宮崎駿のインタビュー記録本であり、結構前に買ったものなのだが、最近はこの本を今になって読み返し、ビールなんかの肴にしながら「くうぅ~」とか「間違いない」などと一人でほざいてる始末である。
ここに書かれているのはナウシカから千と千尋に至るまでの宮崎駿のアニメーション、そして社会に対する姿勢である。
少し話が抽象的で言葉も難しく、正直何度か読み返したが、それでも随所に力のある言葉たちが詰まっていた。
全てを語ると丸一日以上パソコンにしがみついていないといけない羽目になりそうなので、全体の内容を簡潔にいうと、彼のクリエイターとしての化け物さ(ある種仕方なさ)と他のクリエイターや社会への見解、そして自身の中のイデオロギーの蠢き、つまり自身の矛盾や葛藤についての話がすごく面白かった。
なぜ宮崎駿は引退するする詐欺を繰り返すのか、なぜ社会主義的な人と思われているのか、なぜディズニーが嫌いなのか。
そしてなにより、何が私たちをジブリ作品にこうまで引き込むのか。
この本にはそれらに対する答えがあったように感じる。
ニヒルと理想主義の二重露光、
矛盾と調和。ジブリへの反映
で、結局自分に一番刺さったのは彼の矛盾や葛藤、いわば彼のめんどくささ(複雑性)と、それらの作品へのリフレクションだった。
彼が大きく影響を受けた人の話で宮沢賢治と手塚治についても話しているのだが、そこらへんで彼の人間観(性善説的な話)について話が展開されていたように思う。
基本的に、宮崎駿も本の中で認めている(とかんがえていいとおもう)が、彼は理想主義者であるがゆえに、同時にニヒリストでもある。そしてニヒリストであるがゆえにヒューマニズムを追い求める。
作品の一貫したテーマは「この世界を生きることを子どもが肯定できるようなエンターテイメント」なのだが、その背景にどうにもならない残酷で冷徹な生きるに足らない現実、つまり影の部分をニヒルに見つめるまなざしがある。まさに光と闇である。
光を追い求めるがゆえにその影は濃くなり、逆に闇を見つめれば見つめるほど、光や明かりに焦がれ、求めてしまうのだ。
で、その彼のスタンスがどうジブリに表れているかというと、ナウシカを見れば一発だし(ちなみに原作のほうがそのスタンスはクリアに読み取れる)、もののけ姫/アシタカせっ記ではその光と闇の入り混じり方が分かりやすくプロットに乗せられていると感じる。
とくにもののけ姫のメインプロットを見ると一目瞭然である。
村の長となるはずだった少年が受難し、不条理な定めを背負わされ、向かった西の地で、自身の不条理を生んだ原因である人間社会(たたら場)に出会いう。そこで自身らのため自然(もののけ)をも犯す人間の愚かさを思い知り、その反面たたら場の人々のあたたかさに触れる。
そして、その人間と「もののけ」の戦争、怨嗟の連鎖の中で、
「もののけ」サイドにて、おなじく不遇な運命を背負った少女サンと出会い,惹かれていく。
このようにもののけ姫はいってしまえば光と闇、憎しみと愛がごちゃ混ぜになっている作品である。でもこれって世界はファンタジーであるものの、起こっていることは現実の世界とほとんど変わらないのではないか。幸と不幸、正しさとか愚かさ、濃密な影と少しの明かりが絶妙な具合に入り混じっているのがこの世界である。
ほんでもって人間vs自然/もののけ の争いの果てに、上記のようなバックボーンを持った二人からでてくるアンサーが
サン
「アシタカは好きだ、でも、人間を赦すことはできない。」
アシタカ
「それでもいい。サンは森で、わたしはたたら場で暮らそう。共に生きよう。会いに行くよ、ヤックルに乗って。」
である。
なんだこれ最高じゃないか。
本書内でも語られていることだが、これって、この世界では結局ニヒルも理想もヒューマニズムも、光も影も矛盾も、全部抱えて歩くしかないんだ。ってことではないだろうか。
これ、僕みたいにすぐに現実に絶望したり、それで何事も期待することを辞めてしまったりする、またはそうならざるを得なかった人間には、すんごい刺さるんじゃないでしょうか。
宮崎駿の作品って、ファンタジーであってもなくても、現実の地に足の着いたレベルで、白と黒、光と闇(影)が入り混じる世界を描き、キャラクターたちがそこをどう歩くかを見せてくれている。
これが実写だとあからさまだったり説教くさくなっちゃって難しいんだけど、彼のやさしく生命力のあるタッチのアニメーションのおかげで、妙にスッと意識/無意識的に入ってくんじゃないだろうか。
アニメーションの技術、映画のレイヤー構造のすごさももちろんあるが、この光と闇の営みもジブリ作品の大きな魅力である気がしてやまない。
君たちはどう生きるか について
なんだかんだ話したが、小生、じつはまだ例の「君たちはどう生きるか」を鑑賞できておりませんであります。いや見なきゃなのはわかってるけどなかなか腰が重くて…
前の章で、宮崎駿の思想?の複雑性(めんどくささ)と、それゆえにジブリ作品のなかでは光と闇の営みとそこをキャラクターがどう歩くかということが描かれていると話した。
多分、予感としてあるのは今度の「君たちはどういきるか」も大まかな路線はそれで、そのうえで「じゃあ君たちはどうすんの?」っていうのを問うてくるような作品になっているんじゃないかという予感がある。
しかし百聞は一見に如かず。 ということでこれから映画館へ向かいます。
チケットを握りしめ、馳せる心臓のドキドキをきく。
スクリーンの光はその目に何を映すのだろうか。
p.s
見てきましたよ。
やられましたよ鈴木敏夫に。
こりゃ見るしかないでしょ二回目。だってわかんないんだもん全然。
ぜんッぜんエンターテイメントじゃない、笑。
アートじゃないか??個人的には他のジブリと比べると「好き」とは言えないかもしれない。けどやっぱりすごくはある。圧倒的に。
※ここから少しネタバレ
「わかる」ように使ってないし、多分全部に意味があるわけじゃない(駿さん自身もよくわからないまま描いてる?)ので、もしかすると解釈したり意味を見出そうとすること自体が野暮なのかもしれません。
とは言ってもなんとか意味というか物語の輪郭というかを見出したいのが人の業。
ということで、超個人的な見方を白状します。
まず、まひとはなんだかわからない。最初宮崎駿かと思ったけどたぶんめちゃくちゃ生々しく普通な男の子。生真面目な性格である反面、またはそれゆえに自傷を選択してしまうような闇、もしくは自分で頭に傷つくって騒動をつくる意地悪さ?を併せ持っている。ほんでマザコン。もしかすると宮崎駿の幼少期っぽい一面もありそう。
「あっち側の世界」は、最初は生と死のはざまの空間だと思ってたけど、実は宮崎駿の、これまでの作品を踏まえたクリエイターとしての頭の中(精神世界)で、だからこそ時間と世界(パラレルワールド)の境目がぐちゃぐちゃ?な感じがした。一応地獄とか時の回廊なんていう名前は出てきてたけど。てことは大おじさんは宮崎駿??
で、最後積み木が崩れるっていうのは自分が今までやってきた作品、フィクションたちがある日ただの瓦礫に見えちゃう(こともある)っていう…この感覚はこれまでに人生でなにかしら選択を重ねてきた人なら共感できるのでは。
でもこの二つの世界、たぶんここで話した宮崎駿の中の矛盾する/対をなす二つ、つまり理想主義とニヒリズム、光と影、さらにはアニメーションと現実のメタファーとも考えることができるんじゃないだろうか。
んで、最後に「こっち側」に帰ってきたときに、なんか持ち帰ってて、それが「積み木」と「おまもり」っていう。 もうほんとにやられましたよね。
ついでにいうとまひとの「ともだち」のアオサギは鈴木敏夫か高畑さんなんじゃ…なんて気もしてます。
まあこんな風に言葉で表してる時点ではやおさんには「ぜんぜんわかってない、何やってんだこのバカ、」なんて言われちゃうかもしれない。
なんにせよ、二回目見に行きます。
ありがとう宮崎駿。
アニメ―ション、創作に誰よりも呪われ、そして愛しているあなたを愛してます。