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20220801

 今は朝の6時を迎えたところです。数日前から坂口恭平さんの『苦しい時は電話して』を読んで、早起きして「なにかつくる」という作業をしてみようと思いました。私は文学部だってのに文章が書けません。このnoteも、書こうと思って画面を前にしては、何度諦めたことかわかりません。それくらいに長い文章を書くというのはどうも苦手です。何が苦手なのかと言うと、いろんな気持ちが毎秒溢れてコロコロ変わるから、一貫した文章というのが書けないのです。なので、逆を言うと、twitterとかそういう短文で気持ちを表したりするのは好きです。気持ちが楽なんです。「きれいな文章を書かなきゃいけない」とか、そういう重荷になるものが無いんです。誰かは見ているかもしれないけど、どうせ見てないだろうし、自分の気持ちをただ吐き出す場所として使うことができています。今ここまで書いて6:06です。私はこれを1時間書き続けてみようと思っているのですが、持つのでしょうか。こうやって不安を感じてばかりだから何事も途中で辞めちゃうんだろうな、とかいう自己否定の言葉は、隙があればいつでも私の頭の中に介入してきます。うるさいです。とにかく今は、この1時間だけは「書く」という作業に集中したいのです。それにしても坂口恭平さんの本やtwitterはすごいです。私は「死にたい」という感覚には至ったことがありません。でも似たような感情になることはたまにあります。今その感情ではないので正確性には欠けますが、あ、空が綺麗(こうやって暇さえあれば意識が色んなものに向いていってしまうことが多くて困る、ヴァージニアウルフの「意識の流れ」ってこういう感じ?とかよく思う)。澄んでいてとてもきれいです。空って本当にいいなあっていつも思います。同じ色がないんじゃないかっていつも思って、写真を撮ってしまいます。誰かといるときには「こんなん撮っても後で消しちゃうんだろうな」とかほざいていますが、基本消せません。同じ空はもうないって思うとやっぱりかわいく見えて、空の写真なんてなんぼあってもいいなと常に思います。なんかそう、本当に不思議になるんです、自分という人が。友達といるときは負の感情に支配されることもほとんどなくて、みんなの太陽みたいな感じなんです。自分で言うのもなんだけど本当にそんな感じ。もっというと、居てくれたらありがたい存在って感じです。自分で言うんじゃないよって感じだけど、こんなこと自分でしか言えません。他の人からしたらもしかしたらありがたくもなんとも無いかもしれないですし。でも、自分がされたらうれしいなと思うこととか、きっと求められてるだろうなって役割とか、そういうのを察知する能力だけは人一倍優れているみたいです(これは最近になって気づいたんですが。前は他の人も当たり前にできることだと思ってた)。あと、これも最近になって気づいたんですが、私は話しかけやすい雰囲気みたいなオーラみたいな、そういうものをもっているみたいです。コンビニではみんな話しかけられないのにわたしだけ「今日暑いですね〜」なんて声かけられるし、喫茶店では保険ガールのお姉様方から人生について教えていただいたりするし。これって結構羨ましがられるんです。で、私も自分のそういうところに気付いたらとても愛しくなったんです、自分のことが。でも、大学4年になって、就活やらなんやらで自己PRとかする時には何ら使える素材でもなくて、落ち込みました。言葉にできない「親しみやすい雰囲気」なんてもんは社会では通用しなさそうで、私はなにもないからっぽな存在になってしまった気がしました。それでも私は自分のそういうところが割と好きです。そういうところでこれまで何とかうまくやってきたみたいな感じがするし、ラッキーだなと思います。だってこの世に友達ができなくて悩んでいる人はたくさんいるし。SNSで友達になりましょうと言っている人がいると「何言ってんだ」と思ってしまうし。友達なんてつくるものじゃない、話したいなら話しかければいいし、嫌なら態度には出さず心で嫌えばいいと分かっているから、ついそう思ってしまいます。これが「それをできる人」側の意見と言うか、外から、離れて見たときの感想なんだなっていうのは忘れないようにしています。自分はさっき言いかけたように、死にたいまではいかない絶望みたいなものに何度も、定期的に、苦しんでいます。今は早起きできたし、朝ごはんのサンドイッチとねぎの生姜スープ、それから春雨サラダをつくることができたので、充実感に溢れていてマイナスの感情は比較的少ないです。私は何かをする(洗い物、料理、洗濯、掃除など)ことで自己否定を何とかぶっ倒すことができるみたいです。結構疲れがたまりすぎたとき、後はすることがない(正確にはしなきゃいけないことはたくさんあるのに体が動かなかったり、しなきゃいけないことが大きなことと感じて具体的に何をしたらいいかわからなくなったりという感じです)時に、ふと「自分なんて」の感情がやってきます。大体はそんな感じです。で、これも坂口さんの本を読んだときにとても共感したのですが、そうなったときに「休みましょう」って言われるし、自分にも言ってあげるんです。で、過剰に休もうとする。休むって=寝るってこと?としか思えないからとりあえず横になってみるんです。でも驚くことに、それが全然休まらなくて、むしろ「ああこうやってお布団にこもるだけしかできない自分はなんてだめなんだろう。いつもはできるのにどうしてだろう。やらなきゃいけないことはたくさんあるのにどうしてできないんだろう。今まで何をしてきたんだろう。もっとこうすればよかった。私の未来はどうなるんだろう。」みたいな。もう止まらないんです、自己否定やら自己嫌悪やらが。この時間は本当に苦しくて、はたから見たらお布団で寝転がって休んでいても、自分では全然休んだ気になっていなくて、むしろ余計に嫌になってきてしまう。もうおかしいでしょう。おかしいってわかるんですよ、今の私なら。だし、それで休まってないなら動けばいいじゃんと思うでしょう。私もそう思います。動こう動こうと思うんですが、それがなんと動けなくって、だいたいスマホで興味もない動画や、Twitterをひたすらにただひたすらに眺めてたりします。感情は特にありません。これまた私はラッキーなことに自分と他人を比較して落ち込むことがありません。過去の自分や出来ていた自分が大好きなので、それと比べます。さてさて、ここでなんとか動けて建設的な時間を過ごせてたらいいものの、そうではなかったので、この後はさらに自己否定の言葉を投げかけます。「時間は経っているのに結局何もできていない、ただ泣くことしかできない」といった感じのです。すごく面倒くさい、負のループです。じゃあ、結局これって、いつもどうやって回復しているんだろうということも考えてみます。まず大きいのは恋人の存在かなと思います。恋人は、なんというか、すごい人です。私が初めて、自分の落ちている姿も見せることができた人です。先ほども言った通り、家族や友達の前では基本いつでもにこにこ、需要にこたえるために感覚を研ぎ澄まして使っているって感じです。その人たちの前で泣いたことはありません。別に泣きそうになって必死にこらえるとか、そういった経験も特になく、ただ楽しい、みんな喜んでくれてうれしいという感情しか基本的にありません。それが一変、1人になると意識が自分に全集中するからなのか、反動なのか、、、ほとんど悲しい気持ちで過ごしてしまうのです。これにはかなり悩んで、おかしいと思いました。全然人が違うじゃないか、本当の私はどれなんだと。だけどそんな時に現れたのが今の恋人でした。もともとSNSで出会ったんですが、そのアプリを私は気持ちを吐き捨てる場として使っていたので、まあひどかったと思います。気分の波がすごくて、分かりやすいです。そしてそれを見ていた彼はなぜか私に好意を抱いてくれて、私がどんな時に辛くなるのか、どんな言葉を求めていてどう接してほしいのかを分析したそうです。そして、「どんなnatsunoちゃんもnatsunoちゃんだからね。」とか「いつもニコニコしててなんて思わないよ。」そう言ってすべてを受け入れてくれました。「受け入れる」って教育のことを学んでいてもよく出てくるんです、受容とか。でも実際それってどういうことなんだろうって大学に入ってからずっとずっと思っていて、でもそれがなんとなく少しだけ、あ、7時です。今日はここまで。

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