常識を超える
ブログ締切り日の日曜、あぁ、父の日でもありましたね。
私の住む場所では短時間ですが急な土砂降りが何度かありました。これで今日は蚊に刺されながら草木に水をあげなくてもいいわ、とニンマリ。
傘を持たずに外出していたら、なにか屋外で大事な用があったら、ズーンと気分が重くなっていたことでしょう。
皆さまいかがお過ごしでしょうか。梅雨入りの遅れに、さすがに自分事だけではない心配を抱き始めている岩田です。
「あなたには浄土真宗の教えは分からないだろうねって言われたの」
そう溢したのは、いつもエネルギーいっぱい、何事にも一所懸命で、超真面目な知人女性でした。当時、よりよい人生を送るために仏教にヒントを求めておいででした。
彼女にそう言った人物と彼女とは固い信頼関係で結ばれていることは知っていたし、
二人の間でどういう文脈から出た言葉なのかも分からないし、
愚痴でもなかったし。
では「浄土真宗の教えってどういうもの?」と聞かれるわけでもなかったし、
「分かる分からないってどういうことだろう」と考えが発散してみたり、
なによりも私自身が浄土真宗の教えの本質が分かってない自覚はあったので…
つまり、余計な口は挾まずに聞き手に徹していました。
ただ、10年近く経って思い出すくらいですから、記憶の底に仮置きにはしていたようです。
浄土真宗の教えを聞かせていただく現在、ひょんなことからあのお二人を思い出しました。
もしや、もしかしたらだけど…
「努力とか、善悪とか、世間的な常識でどれだけ聞いたとしても、他力の教えは分からないよ」
って、仰りたかったのかな。言葉は違うだろうけど、意味合いとしてはそういうことなのかな。
人のことを考えているようで、自分の中にある発想でしか考えられませんから、あくまで勝手な想像です。
前回、仏教の真髄が込められている『七仏通誡偈』のご文から味あわせていただいたことを、つらつらと書きました。
「悪いことをやめて、善いことをしなさいよ。そして自らの心を浄らかにしていきなさいよ」 仏教の常識です。
ここでいわれている善悪の判断は、何を基準とされているのでしょうか。
私のモノサシで見た善悪のはずはなく、世間の善悪もコロコロと移り変わるものです。ですから移ろうことのない仏教の善悪の基準で仰っているはずです。
ただ、仏教の善悪の基準といってもなかなか難しいのです。
ざっと申し上げたら、自他共に安らかな境地に導く行いを善といい、自他共に心散り乱れ、苦悩させる行いを悪といいます。
さらに「善と悪どちらでもない第三の行為=無記」という分類や、「煩悩を断滅し悟りを開いた、何にもとらわれない行いが善である」といった、より深い仏様の領域の善悪の基準もありますが、ここでは悟りに至る道中での善悪の基準のことだと…考えます。
(なんだか難しくて、自信なくなってきました)
「悪いことをやめて、善いことをしなさいよ。そして自らの心を浄らかにしていきなさいよ」とは、二度と煩悩に振り回されることのないお悟りの世界を目指す者に、その生き方を示されているお言葉でした。
よく考えたら確かにそうなんですけど、世間をどう生き抜くか?という実践とは通じていそうで、次元が違うんですよね。
この偈文は古くから仏教の大意を顕す言葉として大切に伝えられてきました。しかし前回も触れたのですが、言葉は簡単ですし、頭では分かるのですが、実行は厳しいのです。
なぜなら私の自己中心的な煩悩は本当~に根が深い。いわゆる自己チューとよばれる分かりやすい身勝手さだけではなく、生存本能にしっかりとインプットされているのだと感じます。
その自覚を痛切に持っているからこそ、仏教ではこう考えました。
個の生命の一生涯では全ての煩悩を潰しきることなんてできない。だから幾つもの生涯を生き変わり死に変わりを繰り返して、一段ずつ階段を上がるように煩悩を滅していかねばならない。
しかし、それも確実に実行していける保障はありません。
こう聞いて、仏様となるためにその困難な道のりを歩んでいこうと覚悟し一歩を踏み出す。その心さえ起こせないのが私です。
仏様になるためにどれだけかかるのか分からないのではなく、どれだけかかっても自分の力で仏様になることなど絶対に不可能なのです。
そういう者をこそ救いとって仏にせねばならない。そのためには既存の方法では叶わないからと思案され、生きとし生ける全ての者を迎え取って仏とさせるお浄土を建立してくださったのが阿弥陀様という仏様でした。
煩悩を滅していなければ往くことが出来ないお浄土ではありません。
微細な煩悩さえも混じっていない本当に静寂な悟りの境地であるお浄土に、阿弥陀様が迎え取ってくださるのです。阿弥陀様のお力以外では、辿り着くことは出来ないのです。
その時、「これだけ頑張りました」とか「ここまでは出来てます」とか私の努力の痕跡を通行手形のように見せたとしたら…これは恥ずかしい、見当違いも甚だしいことになるのですよね。
「努力と自力はちゃいまっせ」
行信教校で何度も聞かせていただいたフレーズです。
「生きている以上、努力はせねばなりません。でも往生浄土に関しては、自力は邪魔になるんです」
この違いめは、一所懸命努力して生きて来た人ほど分かりづらいのかもしれません。
私は真面目ではありませんが石頭だったため、なかなか受け入れられませんでした。
私をはるかに超えた大きなものに包まれていながらそれに気づけず、一丁前に私の論理で渡り合おうとする姿は、身に覚えがあります。
親に対する反抗期の頃の私です。(今もそう変わりないのかもしれませんが)
『七仏通誡偈』の教えは仏教の基本で、浄土真宗の教えを聞かせていただく者にとっても守るべき教えです。
それなのに、少々の善と自分都合の悪を発動しながら生きている私は、阿弥陀様の目にはどのように映っているのでしょう。
縁に触れたら何をしでかすか分からない意思の弱い者と、心を痛めておいででしょうか。
そのお心は私に分かるはずもありませんが、阿弥陀様が私にかけられた願いはお経典に伝えてくださっています。
「疑いなくお浄土に生まれることが出来ると思って、お念仏をしながら生きてきてくれよ」
難しいことは分かりませんが、ここだけはみっちりと聞かせていただき、その通りいただいてお念仏するより他にないんだなぁと、やっとやっと観念したのでありました。
随分とご苦労をおかけしました。そしていま暫く、ハラハラさせるかもしれませんが、お念仏と共に歩んで参ります。
南無阿弥陀仏
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