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始まりに帰る
皆様、こんばんは。 陰山です。
子ども達が通っている小学校では、今年度から学力や学習意欲の向上の為に、学校を試験会場として漢検が 受けれるようになりました。
子ども達だけでなく、保護者や地域の方も受けれるので、私も娘と一緒に申込をしました。
私が選んだのは2級。
高校卒業・大学・一般レベルです。
なんてたって私はお坊さんですからね。
普段から漢字には慣れ親しんでいますよ。
余裕でしょ!と、試験1か月前に初めて問題集を開きました。
テストをやってみると、200点満点中100点。
だいたい160点取らないと不合格です。
読みは出来ても書くのが出来ない、部首も訳が分からない…
一番難しいのは四字熟語でした。
聞いたこともない四字熟語がバンバン出てきます。
しかも、200個程覚えないといけません。
「こりゃヤバイな…」と手が空いた時には問題集を開いて、ひたすら覚えていく日々が始まりました。
四字熟語を見ていると、仏教の言葉もたくさん出てきます。
「一念発起」「会者定離」「怨親平等」「西方浄土」など。
そして、「唯我独尊」という所で手が止まりました。
その意味の欄には
「宇宙の中で自分ほど尊い者はいないという意味。ひとりよがりの意味にも使われる。」 とありました。
そりゃちょっと違うんでねーの、となった訳です。
「唯我独尊」
お釈迦様がお生まれになってすぐ七歩歩き、天と地を指さして「天上天下唯我独尊」とおっしゃったという話による言葉です。
この言葉には代表的に二つの解釈があると聞きます。
まず一つ目は、お釈迦様の尊さを表しているということです。
この「天上天下唯我独尊」には「三界皆苦吾当安此」という語が続きます。
「三界という苦しみの世界を生きる者全てを、私は安らかならしめるだろう」というような意味です。
お釈迦さまがゴータマシダッタとして生まれる前に、つまり前世において積んだ徳が少し引き継がれて、生まれた時に立ち上がり歩くことができ、言葉を発したと言われます。
その後は新しい生命として赤ちゃんに戻ったのだとか。
もちろん、実際にそのような事が起こったのではなく、この苦しみの世界から解き放ってくださるお釈迦様の尊さ・素晴らしさを現した言葉であろうと思います。
二つ目には、このいのちそのままが尊いということです。
生まれてすぐの赤ん坊のお釈迦様がおっしゃったという所に、自分が何を得たか・何を持っているかとか、 そんなことは全く関係なく、他と比べる訳でもなく、このいのちそのままが尊いんだということを表そうとされているのだと思います。
王家の子であっても、貧しい家の子であっても、性別も問わず、場所も問わず、ただそこに在るいのちの尊さです。
お釈迦さま個人のいのちではなく、私のいのち、子ども達のいのち、あの人のいのち、人間だけでもなく、 動物も植物も地中にいる虫もすべて、そのいのち一つ一つが尊いということです。
なので、「自分ほど」と他と比べて尊いと言っている言葉ではありませんし、ひとりよがりの意味など全くない言葉です。
むしろ皆一人一人が尊いいのちを生きているということです。
言葉というものは生きていますので、時代の中で意味が変わっていくことは仕方のないことなのかもしれません。
しかし、常にその原点に返っていかないと、中身のないペラペラなものになっていってしまうのかと思います。(立ち往生などもその一例でしょうか)
以前、内田樹さんがXで、
「ものごとの本質は起源において開示される」
とおっしゃっておられました。
その通りだと思います、言葉においても同じでしょう。
「唯我独尊」その漢字だけを見て、表面的に受け取ってしまっては、この言葉の本来持つ力が発揮されません。
仏教を学んで思うことは、人は言葉によって生かされているし、言葉というものは力を持っているものだということです。
言葉を発する時にはそれなりに責任を持たないとなりません。
特にお聖教に関わる言葉には、できる限り間違わないように気をつけて発しているつもりです。
なので、今回のような事も流せずこだわってしまう訳です。
以前にも書きましたが、「浄土真宗ってお念仏だけしてたらいいんでしょ」と言われたことがありました。
確かにそうですが、この言い方は、お念仏を称えるという表面的な私の行為にしか目がいっていません。
「南無阿弥陀仏」というのはお念仏ですが、阿弥陀様の本願のお念仏です。 「信じさせ、称えさせ、お前を必ず浄土に生まれさせ、仏と成らせる」という阿弥陀様の願いが形となって、 今この私の口に出てきてくださっています。
このお念仏には阿弥陀様の願いという始まりがあったのです。
その始まりに常に帰らせて頂かねばなりません。
「唯我独尊」という言葉も、「一切の者を安らかならしめたい。お前のいのちはそのままで尊いのだよ。」というお釈迦様の願いが始まりにあった言葉だと思えます。
表面的な言葉ではなく充実した言葉は、私のこのいのちを豊かにしてくださいます。
漢検もまた仏様の願いを味わうご縁となりました。
なんまんだぶ
長くなるといけませんので、この辺りで。
さて、漢検の結果や如何に。
称名