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原点回帰

「死ぬ時っていうのは、誕生日なんやな。いや、分かっていたけどさ。
今日ホンマにそう思わせて貰ったわ。自分がその時を迎えるときになぁ…(ゴニョゴニョゴニョ)」

更新が遅くなりました。岩田です m(_)m

始まりの言葉は、友人宅で食卓を囲んでいたときに、友人のお父様がしみじみと溢されたお言葉です。

仏様のお話しを聞いた後の席で、美味しいお酒もお召しでした 笑

表面的に捉えれば「頭での理解と肚落ちの違い」のように聞こえます。
でも、きっとお父様はその時が最初で最後ではなく、これまでも同じお味わいを重ねて来られて、これから先も「そうだった、そうだった」と味わっていかれるのだろうな。
そんな思いを抱かされました。

と、まったり思い返していたら、

「いやいやいや、死ぬ時が誕生日ってどういうこと?」
モヤモヤしていた昔の心境も思い出したのでした。
「なんとなく分かったつもりになってないか?私」
痛烈なツッコミとともに…。

このブログを読んでくださっている方々、様々な背景をお持ちと思います。
浄土真宗の教えを聞いてこられた方にとっては当たり前のことでも、はじめましての方にとってはワケが分からない。
そんなこと、ありませんか? 
私はお寺生まれですが、思い当たることがたくさんあります。

そう、浄土真宗のお話しはワケが分かりませんでした。当然です。
今まで聞いたことのない価値体系の話しを聞いているのに、知っている範疇に収めて分かろうとしていたのですから。分らないはずです。

「それは仕方のないこと。皆そうや」と大先輩は仰ってくださいました。

聞き方を間違えてしまっているのですから、行信教校で繰り返しワケを説明いただいても、肚に落ちませんでした。
何度も何度も、そのことだけを聞かせていただいていたのに。

「理屈は分ったけど。肝心のところが分りたいのに、どうしても分らないんです!」
と年度末に至って先生に訴える始末。それでも先生方は受けとめてくださいましたね。

本当、お恥ずかしい。どうしようもない悪ガキでした。

今思えば、その悪ガキから聞く者に育ったのも私の努力ではなく、阿弥陀様のお手回しによるものでした。

…と、話しが飛びましたね。ここなんですよね。このブログが始まって、間もなく一年。もっと丁寧に緻密に言語化したくてもできない力不足を思わされ、自らへのツッコミポイントにもなっています。

今回、阿弥陀様の願いとおはたらきのお話しを、原点に戻って味わっていこうとしています。
といっても、このブログで仲間達がずっと味わってくれている、その繰り返しのお話しです。


ご承知のように、生まれてきた者は必ず死んでいかねばなりません。誰もが大往生というわけにはいかず、娑婆でのいのちには長い短いがあります。手の施しようのない苦痛に喘ぎながら死んでいかねばならないこともあります。親子の順番が違えることもあります。

往く者の苦しみ不安だけでなく、残された者は心を抉られるような悲しみを抱えて生きていかねばなりません。

浄土真宗ではその死を「忌み嫌い遠ざけるべきもの」と見るのではなく、「死んだら無になるだけ」と機械的に見るのでもなく、
「この娑婆でのいのち終えるとき、浄土に生まれ阿弥陀様と同じはたらきを持つ仏とならせていただく」と意味を転換させます。

悲しみは悲しみとしてありながら、心の底から明るい意味を見いだしていけるのです。まさしく冒頭のお言葉がそうでした。

こう言い切っていけるのは仏教の中でも特別なことです。
どこが特別なのかというと、「死んで仏になる」と、それまでの仏教の常識を覆すようなことを言ってのける点です。

ここで言う「仏」って、「死んだ人」のことではないですね。
誰にも分かり得ない私の悲しみを、我が事として共に悲しみ、その痛みを抜こうとする。そして本当の幸せを与える。そんな人間には想像もつかない慈悲と、その慈悲を実現するための智慧を具えておられるのが仏様です。

仏様となるためには、根深い煩悩を一つずつ確実に滅していかねばなりません。そのために、幾度も生と死を繰り返して修行を続け、一歩ずつ仏様に近づいていく。
それが、仏教の常識でした。

煩悩に突き動かされて生きる人間が、煩悩を絶ちきろうとするのですから困難の極みです。煩悩の返り討ちに遭い、途中で脱落する者もあります。
また、修行の過程で自己を見つめる目が厳しければ厳しいほど、仏には絶対になることの出来ない自身の姿が見えてきます。
その時、絶望を味わうことになるのでしょう。
仏を志して、絶望の淵に沈んでいかれた方が無数に居られたでしょう。

しかし、親鸞聖人のお師匠である法然聖人は絶望して諦めるのではなく
「この私が救われる教えがどこかにあるはずだ」とお探しくださいました。

ご苦労の末に出遇われたのが、阿弥陀様の願いとおはたらきです。

阿弥陀様の願いとは、生きとし生ける全ての者にかけられた願いです。
「全て」ですから修行が出来る者も・出来ない者も、罪を犯さずには生きることのできない者も分け隔てされることはありません。
全ての者を安らかな仏様の悟りの境地(お浄土)へ生まれさせたい、それが願いの内容です。

その願いの実現のためには、仏教の常識で考えられていたような修行では叶いません。

ですから、阿弥陀様のお名前を称える=「お念仏」の行、ただ一つを選んで、必ずお浄土に生まれさせるための修行として定めてくださったのです。

そして、救われるはずのない私を仏にさせてみせる。それが出来ないのならば仏とはならない。そう誓われ、仏様となられた阿弥陀様です。
願いが願いのままに留まらず、実行力を持った。それが阿弥陀様のおはたらきでありました。

阿弥陀様の願いを聞き、それを真実として受容れ、私にかけられているおはたらきを感じて生きていく。
その生き方の中に、「死は単なる生命体の終焉ではない。阿弥陀様のおはたらきによって浄土に生まれさせていただくんだ」
そう言いきっていける境地が開けてくるのだと思います。

でも、阿弥陀様の方では私を救う術を仕上げてくださったのに、私はそれをいただく感受性を持ち合わせていない…。ここが大きな壁だと、感じていました。
それは、自分に対しては卑屈になり、阿弥陀様の能力に対しては過小評価しているということです。

その点も阿弥陀様は全てお見通しで、私が受容れられる者になるように、たくさんの仕組みをご用意されていました。

私に気付かせるために、お寺にうまれさせた。行信教校に足を向かわせた。お聖教を開かせた。分らない話しでも聞く根気を与えた。お念仏を称えて生きる人々の姿を目の当たりにさせた。その方々が安心して生きる表情・言葉に感動を覚えさせた。仲間につられて自然とお念仏が口からこぼれた…。

どうしようもない私を、仏に憧れさせ、仏になりたいと願わせる者に変革する。

全部ぜんぶ、阿弥陀様のお取り計らいがかかっていました。
阿弥陀様には随分お手を煩わせたと思います。そして、まだまだご苦労をおかけしてしまいます。

今、私は仏様の話しを聞き始めたところです。
何を知る者でもありませんが、聞き続けるところにもっともっと多くのよろこびに出遇える、それだけは確信しています。

そして、その時が来れば「お陰様で色々あったけど安心して人生を歩ませていただきました。またこの度も宜しくお願い致します」
そう言って、お浄土に参らせていただきたい。
そう思います。

たしか、冒頭のお言葉のゴニョゴニョゴニョはそういう意味合いだったような…。
先日は聞き損じてしまいましたが、また聞かせていただきます。美味しいお酒をお土産に!


称名

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