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振り返ってみれば1月は、大阪、京都、和歌山、福岡、福岡、宮崎、京都…色んなところへ行きました。
自坊では1月に報恩講をお勤めします。ご本山に近ければお参りも叶うのですが、なかなかそうもいきませんから、これまで遠く長崎より御本山の御正忌を思いながら、自坊でも「御正忌」と申し上げて大切に勤まってきました。1年で最も大切な、親鸞聖人のご法事です。最も大切、ということはかなり忙しい時期なのです。
にも関わらず、その前後で各地をめぐり、おまけに太った体を絞ろうと、御正忌中に筋トレを始めてみると、法要の正座中に私のふくらはぎがつったままになったり、普段より朝起きるのが1時間遅くなったり、日頃睡眠障害気味でただでさえ眠いのにさらにひどい眠気があったりと明らかに体が悲鳴を上げ始めました。月末に疲れた体は栄養を求めたため、宮崎出張で美味しい美味しいご飯をかき込んで、迎えた翌日の健康診断では計ってくださった看護師から「うん、去年と変わりませんね。ウエスト85センチ、体重72キロです」と言われる始末。
結局この1月は何だったのだろう。
近頃は葬式に僧侶が呼ばれなくなってきました。枕経通夜葬儀をまとめてして欲しいとか、火葬場だけ来てくれとか、葬儀場によっては坊さんがオプション扱いになっているとか。正直カチンときますが、そうしてしまった一端はこちら側だよなとも思ってみたり。
私たちはこの世のいのちを終えられた方を、仏様としてご讃嘆させていただきます。おかげさまでご本願のおはたらきにお出遇いをさせてもらうことができましたよ。あなたと、そのなつかしい姿形のあなたと、もう直接出会うことは出来ないけれど、今仏様となってまた私を導いていてくださいますね、仏様として私に出会い続けていてくださいますね、と大切にさせていただきます。お葬式はそのようなご縁だと味わっています。
昔々のとある場所で、法話の実習講義を受けていると、亡くなられた方は仏様となってくださったとお通夜の布教を想定して話されていた方に対して、講師の方が、「亡くなられた方が仏様になられたかどうかは私にわかるものではありませんから言うな」と指摘されていました。
その時分私は僧侶になりたてで、大学では別のことをやっていましたから、正直今よりお聖教に親しく無かったし、それまで父や兄など近い人のお説教でしかお聴聞をしてなかった身でした。ですから、質問も何も出来なかったのですが、強烈な違和感だけが残りました。
他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや
確かに本願のはたらきによって、本願まことと受け容れお念仏するものがお浄土に生まれていく、というのが浄土真宗の中心でしょう。だから、その人がその人生で浄土真宗を大切にされていたのかどうか私は知らんから、お浄土に生まれていったのかどうか、私には確かめようも無い。そもそも私のはからいを超えた如来さまのおはたらきだから、私が沙汰するものでもない。だから、そのご講師のおっしゃることは間違ってはいない、と思います。
でも一方で、有名なお言葉ですが、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ
十方衆生よ、とすべてのいのちに向けたご本願のおはたらきではあるが、他でもないこの私にこそかけられた願いだったのだよと、親鸞聖人が仰られていることを考えてみれば、あらゆる縁が、あらゆるいのちがこの私をお浄土の仏にかえなすおはたらきでしたね、と味わってもよかろうと思っています。
ですから、先にこの世のいのち終えられた方はお浄土に生まれていったのだ、いや私を絶えず導いていくおはたらきだったのですね、私はずーっとおはたらきの中でしたね、と布教の場で私が御讃嘆させていただくことに何の問題があるのか、と感じているわけです。
自分以外のいのちを、お浄土参りの仲間とみるか、お浄土に導いてくださる仏様として見るか、ということもあるのでしょう。両者は対立するようなものではないと思っていますが、後者の方が嬉しいなと思っています。
ですから、亡くなられた方を仏様として御讃歎させていただくお葬儀にさせてもらいたいなあと強く思うことです。
まとまりませんが、この辺りで…
投稿遅れ、失礼しました。
なんまんだ