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サルスベリは冬も輝く
こんばんは。
積雪の滋賀から那須野です。
雪かきが終わったかと思うとまた雪かき、「あっつー」と言いながらふと視線を上げると、青空にサルスベリ。
夏には白く可憐な花を楽しませてくれる我が家のサルスベリですが、今は全身に雪をまとい、冷たいに風にそよそよと揺らいでいます。
『阿弥陀経』の中には「七重行樹」と七重に真っ直ぐに立つ木々の描写があります。
なんとなしに拝読していると、真っ直ぐというところに、阿弥陀仏浄土の秩序を表現しているのかなと思っていましたが、善導大師の『観経』の解釈書『観経疏』「宝樹観」の中に、ヒントがありました。
そこでは、お浄土の木について、
根は黄金、茎は紫金、枝は白銀で小枝は瑪瑙、葉は珊瑚で華は白玉、実は真珠であると、
そのように説かれています。
それが七重に連なるので、四十九の輝きがあると言います。
四十九というのは具体的な数字を表すのではなく、それほど多くの、という意味でしょう。
はて、私はこの一本のサルスベリにそれほどの輝きを見たことがありません。
せいぜい夏の暑い盛りに咲く花をかわいいなと思う程度です。
四十九の輝きをもって、仏様の覚りの境界から見た一本の樹木のいのちの輝きを表現されています。
これは何も樹木に限った内容ではなかろうと思います。
私はサルスベリの夏の花にしか輝きを見出せないように、あらゆる物事の一面だけを見て、良いだ悪いだ好きだ嫌いだと評価します。
でもそれはこの世を生きる上で仕方のないことでもあります。
評価し、評価される世に生きています。
色んな生き方があるのだから、色んな職業があって、働ける人もいれば働けない人もいる。
自分ではそういう考え方の持ち主だと思っていますが、当然そうではない考え方をする(と私が勝手に思っている)人を、どうしても好みません。
あるいは別の人から見たら、私自身が社会の王道を生きている、面白みのない人間に見えるかもしれません。
大体、そういう考え方の持ち主だと言い切ってしまう人、私自身あまり好きではありません。
そう、先の私は私自身が嫌だなと思ってしまう発言をする、あまり好きではない人物です。
つまり、対他者にだけではなく、自分自身の中だけでも随分と都合よく解釈してしまうのがこの私です。
少し踏みとどまって、気が合わないと思った人と話をしてみると、意外と仲良くなれたりします。
めっちゃ面白い人やんと思ってた人が、知っていくうちに随分薄っぺらな怪しい人に見えてきたりもします。
その繰り返しの中で、私はこの生涯を過ごすのでしょう。
翻って、仏様はそんな段取りは一切用いず、そのいのちの輝きをすっとご覧になることができるのです。
えらいこってす。
とてもとても想像ができませんが、その想像のできない境界を、お経典を通して少し覗き見ることができます。
お釈迦さまのお弟子に周梨槃特という方がいらっしゃいました。
この方は自分の名前も憶えられない、今で言う知的障がいの方です。
その周梨槃特に、お釈迦さまは一枚の布きれを与えられます。
その布きれで槃特さんは毎日毎日塵を掃除します。
しかし、拭いても拭いても積もる塵を見て、ある日槃特さんは気づきます。
「この積もる塵のように、私の煩悩も次から次へと湧いてくる、人の心も同じだったのだ」
そう気づいた槃特さん、ついに仏様の教えを理解してお悟りなさったそうです。
この話は、それぞれに適した悟りへの道があるのだというメッセージとして伝え聞いたように思います。
昭和の中頃に、戦争孤児や知的障がい児の教育に携われた田村一ニ先生という方がおられます。
先生はこの周梨槃特の話を読み、
「お釈迦さまは一方的に箒(先生は箒とおっしゃっていました、布きれと両説あります)を渡されたのではなく、周梨槃特が好きなこと、楽しいこと、喜ぶことを問うて、周梨槃特が「私は掃除が好きです」と答えたから、それではと箒を与えられたのではないか。そこには周梨槃特の天にも登る浮き浮きとした気持ちがあったろうと思われる。」(要約)
というようなことを感じられたそうです。(本当はもっと物語調で楽しい文章なのですが、全文引用できないので要約で失礼します。)
このやり取りの想像はとても良いなと感じるのですが、いかがでしょう。
お釈迦さまは、仲間からあれもできないこれもできないと言われる槃特さんの中に、掃除が好きだという彼の喜びを引き出し、悟りの道を与えました。
一方的にこれならできるだろうと押し付けられたのではないということです。
初めの話に戻りますが、私が行う人への評価は、周梨槃特は何もできないとなじった、仲間のそれとよく似ています。
お釈迦様は瞬時に槃特さんのいのちの尊さと輝きを見出され、お悟りへ一番の方法を与えられました。
いのちの尊さや輝きと言う時には、ただ「花が綺麗だ花が散った」などの表面的なものではもちろん無く、
その一本の樹木から全てのいのちの尊さを感じるような、そんな輝きを見出すことなのでしょうね。
苦手なあの人のいのちの輝き、どうも私には難しい様です。
要らんこと言わない寡黙なサルスベリを相手に、ちょいと真似をさせてもらおうかなと思います。
ちなみにインドにも日本のサルスベリによく似たオオサルスベリという樹木があるそうです。
槃特さんも、その花びらを掃除されたかも知れませんね。
そうか、このサルスベリには無限の輝きがあるのか。
称名