「如是我聞」
皆さま、こんばんは。隂山です。
那須野さん、佐々木さんが書いてくれたように、行信教校では5月22日~26日の5日間「専精舎夏講」という安居があります。
この数年はコロナの影響により縮小した形での開催となっておりましたが、やっと今年から今まで通りの開催が出来ました。
午前は「本講」「副講」という先生方のご講義と「会読」という問答形式でお聖教を学ばせて頂き、
午後は先生方からのご法話、夜は先輩方からのご法話と、本当に丸1日ご法義に浸りっぱなしの期間です。
思い返してみると、私が初めて専精舎夏講に来たのは、行信教校入学前の年でした。
見学がてら午後の先生のご法話を聞きに行きました。
本堂に入ると、演台の周りに黒衣に黄五条を着けた学生がギュウギュウに座っており、その後ろに先生方やお同行の方々が椅子に座り、またその椅子の間の隙間にも人が座っていて、これぞ満堂って感じでした。
自分のことを部外者だと思っていた私からすると、何とも入りにくい空気でしたね笑
空いている所に座りご法話が始まるのを待っていると、至る所からお念仏の声が。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ」
ほんまにずっとお念仏してる学校なんやなー。
ご法話が始まりお聴聞していると、その間も至る所から
「なんまんだぶ、なんまんだぶ」
しまいには笑い声すらも「なんまんだぶ!」という方がいたりで、
すごいというか恐いというか、変わった所やなーって感覚が第一印象でしたね。
しかし、また羨ましくもあったんです。
当時、信仰というものに迷っていたというか、ご法話聞いたりしてもあまり有難いという感覚がありませんでした。
僧侶やのに、こんなんでええんやろうか。ってよく思っていました。
そんな私からこの光景を見ると、「私もこんな風になりたい」って思ったんでしょうね。
そこから色んなご縁があり、翌年から行信教校へ入学させて頂きました。
行信教校の講義は、ただの講義ではなく法話でもあるんです。
先生方がお御法を有難そうにお話くださるんです。
本当に自分自身味わって有難いと思ってお話くださるのが伝わる。
そのお話は、ただただ頭に知識を詰め込むのではなく、私の心を豊かに開いていってくださいました。
講義の際、先生方はよく「先生からこう聞かせて頂いた」というお話をしてくださいます。
今回の専精舎夏講でも、ご法話の中で「先生からこう聞かせて頂いた」というお話をたくさん聞かせて頂きました。
なんとなくお経を聞かせて頂いているような感覚でした。
お経は基本的に「如是我聞」「私はこのようにお聞きしました」というお言葉で始まります。
仏弟子が、「お釈迦様からこう聞かせて頂きましたよ。」と私にお釈迦様のお言葉を伝えてくださっています。
親鸞聖人も、
「阿弥陀さんのご本願がまことであるなら、お釈迦様のお説教がいつわりであるはずがない。お釈迦様のお説教がまことであるならば、善導大師の御釈がいつわりであるはずがない。善導大師の御釈がまことであるなら、法然聖人のおっしゃったことがどうしてうそいつわりであろうか。法然聖人のおっしゃったことがまことであるなら、この親鸞が申すことも、あながちにいだずらごとではありますまい。」
と、おっしゃられています。
お釈迦様の時代から、ずーっとずーっと続いてきた「私はこのように聞かせて頂きました」を、今私が聞かせて頂いています。
有難いご縁の中におらせて頂いております。
「私はこのように聞かせて頂きました」というのは、二種深信の徹底でもあるんでしょうね。
深心とは、浄土真宗の信心です。
その信心は、阿弥陀さんのご本願をそのまま聞かせて頂くことで、
自分の力では決してこの迷いの境界を出ることは出来ず、阿弥陀さんの本願力によってかならず浄土に往生し仏と成らせて頂けると聞かせて頂くことです。
「私はこのように聞かせて頂いた」というのも、私の上に決して真実はない。真実はその聞かせて頂いた法である。ということでもあるんじゃないでしょうか。
我々僧侶は、ご法事の時などに、お同行様と共々に阿弥陀さんのお御法をお聞かせいただく機会があります。
それを法話と言います。またお取次とも言います。
僧侶が一方的に話しているようですが、共々に聞かせていただく、というのがお取次の本質であると思います。
実際のところお取次の場で、「私をよく思ってもらおう」とか「ええ話しよう」とか浅ましい私が出てきます。
阿弥陀さんのお御法をお取次させて頂く場で、その考えはお取次の邪魔になりますね。
お世話になっている先生がおっしゃっておられました。
「聞いたこと以上のものは私から出てこない」
聞いたことを聞いたままお取次させて頂く。
それが仏法聞く者の役目でしょうね。
専精舎夏講が終わり、燃え尽きた感がありますが、
また聞法の日々を送らせて頂きます。
称名