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仏教を依りどころに

こんにちは、滋賀から那須野です。

先日御門徒さんとお話しをしていると、お焚き上げの話になりました。
ご位牌やお札などを処分するのに神社や寺院で燃やしてしまうことですが、起源は平安時代の陰陽師に遡るのだとか。
どんど焼き、とか焚焼会とも言われるそうですが、呪術などに否定的な立場の私ども真宗門徒には、この焚焼会がしっくりくるかも知れません。

お正信偈に、「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」とあります。
曇鸞大師を讃嘆される二句です。
「菩提流支三蔵に浄土の経典を授けていただき、道教の書物を全て焚焼(燃やして)して浄土の教えに帰依した」といったところでしょうか。
この焚焼の話のインパクトは結構強烈です。
超簡単に補足しますと、長寿不老の術を道教に学んだ曇鸞大師は、その術を習得し、いざ国に帰ろうとする道中、菩提流支というインドの仏僧に出遇います。
曇鸞大師は誇らしげにこの道教の術の話をしますが、菩提流支に叱られます。
長寿不老というのは、私のこの世での命をどうにかこうにか思い通りにしようという考えです。
一方で菩提流支は仏教の無量の寿(いのち)の話を説かれました。
目から鱗の曇鸞大師は、つい今まで一生懸命学んだ道教を捨てて、仏教に帰依されたのです。
そしてこの時曇鸞大師がとった行動が、道教の仙経の“焚焼“ というものでした。

お焚き上げの言葉が浄化や鎮魂をイメージさせるのに対し、曇鸞大師の焚焼のイメージは、不要なものを焼き捨てる処分でしょうか。
ここで曇鸞大師が焚焼されたのは道教の仙経です。

道教:一般には、老子の思想を根本とし、その上に不老長生を求める神仙術や、符籙(おふだを用いた呪術)・斎醮(亡魂の救済と災厄の除去)

Wikipedia

宗祖は『正像末和讃』に
「かなしきかなや道俗の 良時・吉日えらばしめ 天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」
と言われ、卜占祭祀にたよる僧侶民衆を嘆き悲しまれています。

決して卜占祭祀の否定ではなく、それをたよりにすることを嘆かれています。
現代でも多くの方が卜占祭祀に熱心です。
朝はどのチャンネルでも今日の星占いなるものがあるのではないでしょうか。
チャンネル毎にランキングが異なるのには、どうしたもんでしょう。

ま、その信用度はさておき。
人生で本当に苦しい時、誰に相談しても正論は返ってくるが、中々どうして現状は良くならない、そんな時、ふと占いなどに足が向いてしまうのかも知れません。
そんな時に少しでも自分に当てはまるようなことを言われると、信じてしまうのですね。
その結果を信じるのは自由ですし、頼りたい気持ちも分かるのですが、ただでさえ不安な相談者に更なる不安を煽ってきたり、磁場のパワーなどに任せようとするのが、私はどうも好きじゃないです笑

例えば占い師に相談して、状況が改善されたとしましょう。
少ししたら、新たな問題が浮上します。
また占い師に相談します。
今度はうまくいきません。
また占い師に相談します。
行いが足りてないと言われます。
占い師の言うように、もっともっと頑張ります。
(お墓掃除とか、盛り塩とか)
少し良くなってきた気がします。
と思ったらまた新たな問題が。。。
というように、私たちは生きている限り様々な問題が次から次へと出てくるのです。

占いの結果を気にするあまり、縛られ、振り回され、いつの間にか自分の意思ではなく占い師の指示で人生を生きているというようなことにもなりかねません。

お釈迦さまご在世中、多くのインドの人々はバラモン教を信仰していました。
バラモン教は火の宗教です。
火が大きければ大きいだけバラモンの神の元に届き、願いを叶えてくれるのです。
お釈迦さまはそれに疑問を抱かれ、膨れ上がる人間の欲望にこそ苦しみの根源があると考えられました。

そして親鸞聖人は、その欲望をコントロールして無くすことなど到底できないと気づかれました。
欲望をコントロールして無くすことができることを悟りと言います。
私ども真宗門徒は、この世のいのちが尽きる時、阿弥陀さまの本願力によって往生成仏させていただくと聞きます。
つまりこの世のいのちが尽きるその時まで、欲望は生まれ続けるのです。
その欲望を仏教では煩悩と言います、今更ですが。

自分自身に原因がないと思っていても、思い通りにならない現実というのは無情にも押し寄せてきます。
その現状をどうにかしたいと思うのもまた、煩悩なのです。
その時に何を依り所にするか、占い師なのか、私自身なのか、仏様の言葉なのか。
私は、揺れ動かない真実の言葉、仏様の言葉を依り所に教えていただきたいと思っております。

「苦しかった過去は変えられないけど、過去の意味は変えられる。(変えられていく)」
とても大切にしたい先哲の言葉です。
現実に起こる辛い出来事は変えられなくても、その意味は変わるということでしょうか。
私の力では転じることはできませんが、仏様の言葉を聞くことで、転じられていくのですね。

長くなりました。
この度はこの辺で。


称名

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