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命のど真ん中

ようこそようこそです。

今週は佐々木です。よろしくお願い致します。

新生活にも少しずつ慣れてきたかなと思う時節であります。また、花粉症も少し治まってきたかなと実感しているところです。


私が週末を中心に法務をしている場所があります。

法務とは、僧侶としてお参りに従事することです。

法の務めと書きます。

先週木山さんが仰って下さった、おみのりの実践であります。

私としては、規範、という意味合いよりも、法則、として「法」を見ていたなと、思ったことでありました。共に大切な味わいであるだろうと思います。

従事している時のみならず、自分が問われ続けるのが、法、おみのりであります。

どこまでいっても厳しい。また、どこまでいっても1人ではない。という、一見矛盾する、悲しみとよろこびでもあろうかと思います。

仏法に出遇う者は、悲しみも、よろこびのきっかけに出来る時があります。
悲しみの真っ只中こそ、大慈悲の仏様の働き場所であるからです。




僧侶は仕事か、議論を聞いたことがあります。

「仕事じゃない、生き方だ。」
「でもそれでご飯食べてるから仕事であり職業だ。」
「仕事ではあるが、ビジネスではない。」

様々ありましょうが、心に残ってる意見が2つあります。

1つは、「仕事である」とは
仏様に仕えさせてもらうことなんだ。
一生涯仏事を通して、御慈悲を味わい続ける、御奉仕なのだ。


もう1つは、
「職業である」とは
私の業である。
様々な命の形をとりながら、やっと人間と生まれてきた私を、どうにかこの法に出遇わせる働きであったんだ。
生まれてきた意味ここにあり、と、いうことでもあると思います。

折に触れ、思い出したいことです。

なんとか、このおみのりに出遇ってくれよ、と、最後の最後、御六字が私に届きました。
南無阿弥陀仏という御六字が、阿弥陀様そのものであったと味わえるところに、この御法義、浄土真宗というおみのりの温かさがあります。

私と離れて遠くで御活躍のお悟りなら、私と関係ありません。
そんなヒーローインタビューには興味も持たない私です。

私の中に働いて、初めて本当のお悟りです。
ようこそようこそ今ここに、御活躍の仏様でありました。

私が仏様から離れないようにするのではなく、仏様が私から離れられない大慈悲でありました。
御念仏相続の念仏者には、そんなよろこびがあるのではないでしょうか。

何を言おうとしていたか。

週末、法務をしている場所があります。

そこの桜がとても綺麗でした。
本当に綺麗で、今までで1番だったといっても差し支えないくらい綺麗でした。

もうほとんど散りました。
散る桜 残る桜も 散る桜
なんて思いながら散っていく様を見ていました。


なんとなく寂しい思いも抱いたことでありました。

しかし、ある人が、桜の命は終わってないよ、と仰いました。

緑の葉をつけ今生きる。
満開だけが桜の命ではない。と。

寂しい思いを抱き、綺麗だったなぁと思っていた私は、桜の御命の、一面しか見ていなかったのでしょう。

桜は、命のど真ん中を、今生きているのでありました。

私達にも、見栄えが良い時悪い時、人に受け入れられる時、そうでない時、
人に喜ばれる時悲しまれる時、それぞれあります。

都合の良い時によろこぶのは簡単です。
そうでない時に悲しいのは当たり前です。

しかし、思い通りにいかないその時も、私の命のど真ん中です。
御慈悲の働き場所そのものでした。

どんな形であろうとも、今生きている私を、願って離さない、命のありさまを聞かせて頂く御法義でした。

ヒーローインタビューは遠くの彼方で行われるのではありません。
私というお立ち台の上、その御活躍を讃談させて頂く日暮らしだと、今日も一日頂きます。

様々な先輩の、あの御念仏の声が思い出されます。南無阿弥陀仏

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