植えられた因🌱
こんばんは。隂山です。
私のお預かりしているお寺には昔、山椒の木がありました。
幼い頃、母から「木の芽採ってきてー」と言われ、採った木の芽を手のひらで叩き、立ち上がって来る匂いを嗅ぐのが好きでした。
また山椒の木が欲しいなーと思っていた時、友人から山椒の種を頂きました。
その友人からの一言「変な所に植えてな」
山椒はアスファルトの隙間とか、こんなとこ生えへんやろーってとこから生えてくるとのこと。
聞いた通りに本堂の裏から変な所ばかり探して数十個の種を植えていきました。
そしたら、ある日、塀の隅の隅から芽が出てきてる!
ほんまに変な所から生えてきたー。と思っていましたが、その芽は冬を越すことが出来ず枯れてしまいました。
残念だけど仕方がない…
諦めていたら、先日、銀杏の切り株の根っこから何か出ている………
あれ!?これ山椒!?
一枚だけ葉を取り、手のひらで叩くといい匂いがしてきて、間違いなく山椒でした。
私が植えたことを忘れたのか、私の手のひらからこぼれた種がたまたまそこに入ったのか分かりませんが、確かにそこに山椒の芽が出てきていました。
果というものには必ず因があります。
今ここに山椒が生えているということは、私が忘れていようが何であろうが、必ずここに種が植えられたということです。
今というものは果です。
山椒の種は因、芽は果です。
過去の因(種)が、今果(芽)として出てきている。
私の口から出てくださっているお念仏。
お念仏も果です。
だから、必ず因がある。
お寺で育った私は小さい時から家族がお称えしているお念仏を聞いて育ちました。
なので、よく分からずも、こういうもんなんだと思ってお念仏していました。
お念仏すると、ばあちゃんが喜んでくれた。
それが嬉しかった。
子供の私にとっては因なんかよく分かりません。
ただ、今ここにある果を楽しむだけです。
幼い私が山椒の木から木の芽を摘んで楽しむように。
しかし、因を知らせて頂くと見える世界が変わるように思います。
話が変わりますが、前回の私の記事で地元の小学生達が地域探検でお寺に来てくれた話を載せました。
子供たちに、地元の川は昔は曲がっていて氾濫があった。
だから、ご先祖さん達は今の私たちが安心して暮らせるように川を真っ直ぐにしれくれたんよ。って話をしました。
私も村のおじいちゃんやおばあちゃんに聞かせて頂いたお話です。
昔、この村の周りは一面田んぼでした。
村の人全員がお米を育て、生計を立てていました。
川が氾濫したら、この辺り一帯の田んぼがダメになったことでしょう。
その年は、村中の方達が苦しい日々を過ごさなければならなかっただろうと思います。
その苦しい生活と、先の者を思う気持ちが因となり、果として今、川が真っ直ぐに流れ氾濫もなくなったんでしょう。
そう思うと、今までただのなんてことない川やったものが、ご先祖方の御苦労の賜物としての川に見えてきます。
今、私の口から出ているお念仏の因は阿弥陀さんのご本願です。
迷い続け苦しみ続け、決してそこから抜け出せない私を憐れみ悲しみ、お前を必ず救うと思い立たれたご本願は、お前を必ず救える仏となったと私の口から「なんまんだぶ」となって出て来てくださっています。
私が知っていようがいまいが、お念仏はご本願があるから出てきます。
しかし、その因を知らせて頂くことによって私の上に生きる意味と方向というものが芽生えてくるんでしょう。
因を知らせていただくというのは、阿弥陀さんのご本願を聞かせていただくということです。
ずーっと遙か昔から阿弥陀さんのご本願という因が植えられ、今私の口からお念仏として出て来てくださっているんですね。
この因があるから、お念仏もうしながら、このいのちを安心して生きさせて頂くことが出来るんやなと、突如顕れてくれた山椒から教えて頂きました。
称名