先日、島根県安来市総合文化ホールアルテピアで講談『安来今昔物語』をさせて頂きました。

古事記が編纂された712(和銅5)年の翌年、713年に元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂したのが、各地に残る風土記です。
安来は、その風土記にも地名が登場します。

名前の由来は、スサノオノミコトがこの地を訪れて
「吾が御心は安平(やす)けくなりぬ」
と言ったからとか!!
スサノオのお陰でついた地名が安来なんです。
凄い♪♪

金屋子神が東から白鳥に乗って、安来に降り立ち、そこで「たたら製鉄」を教えたところから、玉鋼の町となりました。
「たたら」は木がいるんです。山の木々は斬り倒され、その木で鉄の元になるものを溶かし、不純物を取り除いていく。
火の温度を上げるために鞴(ふいご)が利用されました。
木々が刈られたところは、田畑となり、田畑にならないところは削られて、鉄の元となる材料がとられました。
山が削られ、そこに川ができ、その川で砂鉄がとれました。
それもまた玉鋼の材料となりました。

出雲は銀山もあり、鉄も作ることができる豊かな土地でした。
今の世にも残る清水寺、雲樹寺も創建され、さらに多くの人々が集う場所となっていきました。

その中で勢力を持ってきたのが尼子氏。
戦国時代、尼子氏は月山に富田城を築城しました。
これが難攻不落の城。
そして、尼子氏に仕えたのが山中鹿之助でした。
尼子家再興のため、彼は月に願いました。
「我に七難八苦を与え給え」
しかし、その想いはむなしく、毛利元就の軍勢に討ち破られ、尼子氏は毛利方に月山富田城を開け渡しました。

戦国の世が終わり、江戸時代になると堀尾吉晴がこの地域を治めました。
彼は中心拠点を山側ではなく、海側につくることを決め、安来から松江に城を移しました。

城はなくなっても安来には鉄があります。
江戸時代に開発された北前船は多くのモノを安来にもたらしました。
日本海側の各港に寄ってきた北前船は、普通では手に入らないものを安来にもたらし、安来のものを各地に届けました。
それはモノだけではありません。
各地の伝統芸能、唄、踊り、遊び、そういったものも海路をつかって交流が深まっていきました。
そんな中出来上がったのが安来節。安来節の一部である「ドジョウ掬い」が有名ですが、唄、踊り、銭太鼓、全てで安来節です。
新しい芸能は、多くの方の心をつかみ、令和の今でも定期的に公演が安来では行われています。

そして、北前船が安来にもたらした多くの富は、途絶えていた神事を復活させました。
それが月の輪神事です。
出雲風土記では、語臣猪麻呂(かたりおみのいまろ)の娘が鰐に片足を食われ亡くなったお話が残っています。猪麻呂は神々に「仇討ちさせてくれるよう」祈り続け、その願いが通じたものか、戻ってきた鰐に鉾を突き立て仕返しを果たします。
そのお祭りはずっと継承されてきていたそうですが、いつの頃がなくなっていいたそうです。しかし、町で疫病がはやったときに、「忘れてはいけないことを忘れたから神様が怒ったんではないか」と考えた町衆が思い出したのが、月の輪神事でした。
すぐに月の輪神事は再興され、鉾を真ん中に突き立てた山車に、大きな太鼓と小さな太鼓が据え付けられました。その山車は4日間、町を巡り、太鼓を叩き、周りには笛、鐘を鳴らす方々を連れました。
それが現在に残る月の輪神事です。

安来は上記の語臣の物語のように面白い物語が沢山のこっています。
神無月に出雲の向かう神様が、その道中休憩をされる十神山の物語や、傷ついた鷺が浸かると元気に飛び立つ不思議な水の物語など、今の地名に繋がる物語は過去と現在を繋ぎます。

そして、江戸時代が終わり、明治になっても、多くの人材を生み、現在でも足立美術館、加納美術館はとても素晴らしい展示を続けておられます。

こんな沢山の物語の存在を知ってしまうと、語り継いでいかなければならないなぁと思ってしまうのです。
やっぱり、物語は楽しい!!

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