「火消し魔」・・・ 妖怪考現学。今も生き続ける妖怪たちの生態。
「今朝の連続ドラマ見た? 美鈴子の泣きの演技、すごかったね。
思わず引き込まれたよ」
自称テレビのハードウオッチャーだと言う営業部の安西課長は、
出社するなり、朝ドラの主役の話を始めた。
「お母さんとの別れの場面で、あんなにタイミングよく涙が出せるなんて、
さすが女優だね」
私はすぐに、マズい!っと思った。
そしてその予感は当たった。
「あんなの全然大したことないですよ」
入社3年目、武井美幸が、早速安西課長の言葉に喰いついてきた。
「見ててください」
真顔になって、宙を見つめ始めた。
美幸は自己顕示欲が強く、全く知らない芸能人やアイドルにまで
ライバル心を燃やすタイプ。
どうやら、女優の涙など大したことは無いと主張したくて
自分も簡単に涙など流せる、というところを見せたいようだ。
「お! 武井さん、今度は女優に挑戦ですか?」
自分の目元に集中している美幸をはやし立てたのは、
後輩の上松くんだ。
彼は以前から美幸に反感を持っているようで、
もし、美幸が涙を流せなかったら、
「やっぱり出来ないじゃないですか」
とツッコミを入れるつもりだろう。
よしんば美幸が涙を流せたとしても、
「役者でもないのに自在に涙を流せる女なんて、
彼女にはしたくないですね」
などと言って、からかうに違いない。
そうなったら、この世の終わりだ。
美幸は、自分が仮想敵国(つまり芸能人やアイドル)に
勝てないと思われるたら(もちろん勝てるわけが無いのだが)、
その日一日機嫌が悪くなってしまうのだ。
当然課内は水を打ったように静まり返り、
息が詰まりそうな雰囲気の中、仕事をこなさなければ
ならなくなる。
上松くんは、外廻りに出てしまうから良いだろうが
残される私の事も考えてくれよ。
目元の筋肉を動かして必死に涙を流そうとする美幸。
その様子をニタニタと笑いながら見つめている上松くん。
私は余計な火種を持ち込んだ安西課長に
救いを求めて目を向けた。
しかし、課長は課内に広がる緊張感に気付く様子もなく、
又も朝ドラの話をする。
「いやあ。妻と朝ご飯を食べながら観ていたけど、
あの展開は、超ショックだったね。
いつも観終わった時に互いに感想を言い合うんだけどね。
コメントにも感動を込めんといかんなって
気を使ってしまったよ。ははは」
何を言っているんだこの人は、
『朝食』で『超ショック』?
『コメント』に『込めんと』?
オヤジギャグ言ってる場合かよ。
美幸の暴走を止めないと、今日一日私たちは
メチャクチャ重い空気の中で仕事しなくちゃいけなくなるんですよ。
分かってるの、課長!
私の懇願する視線を無視して、課長は続けた。
「あの女優さんは、演技の女王だな。
話も旨いし、まさにトーキングだ」
今度はオヤジギャグにもなってない。
もう止めて~!
と頭を抱えそうになった時、背後から笑い声が聞こえてきた。
美幸が大声で笑い出したのだ。
「止めてくださいよ。課長。可笑しくて涙が出ちゃったじゃないですか」
美幸は、ちょっと顔洗ってきます、と言って出て行った。
上松くんは、ちょっと残念そうな顔をしたが、デスクに向き直り
出かける準備を始めた。
課内の緊張が解け、通常営業に戻った。
呆気にとられながら、課長を見ると、
課長はニッと笑ってウインクをした。
『この人は、仕草まで前時代的なオヤジギャグだな』
と思ったが、悪い気分にはならなかった。
後で日記には、何もない平和な日であった、と書いておこう。
おわり