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ヴィパッサナ瞑想体験記その6

痛みへの恐怖。

 午後は2時半からグループ瞑想である。負け惜しみかもしれないが、呼吸を数えたりマントラを唱えて座るなら、痛みも軽減するかもしれない。でもこのヴィパッサナ瞑想は観察の瞑想だ。痛みがあれば、その痛みを取りだし、観察し、味わう。ということは、それだけ痛みが鋭く迫ってくるのだ。

 頭や腕を観察しているうちは、足のことは忘れていられる。しかし、観察が足に至り、その痛みに向かい合うとき、それ以前よりも何倍も鮮明になった痛みがそこにある。痛い部分はなるべく早く通り過ぎたい。しかしゴエンカさんは、痛い部分を観察しなさいという。そうすれば痛みの正体が分かるというのだ。でも、それが分かる前にくじけてしまう。そして、

「ババット・サッバ・マンゲレン(生きとし生けるものは幸いであれ)」

 の声に救われるのだ。まわりを見ると(もちろんホントは目を開けてはいけないのだけど)、みんな岩のように座っている。やっぱりぼくだけなのだろうか、だめなのは。

 しかしよく考えてみると、このころは感覚を探すこと、痛みに耐えることに集中していたせいか、雑念がほとんどなかった。最初は1分も意識を持続できなかったのに比べるとえらい進歩である。

 これだけつらい思いをしながら、帰りたい、途中で止めたいと言う気は起こらなかった。誰とも口を利かず、1日2食で、他のことは一切考えずに自分のことだけに集中する。これはとんでもなく贅沢な時間だと思う。

6日目。

 京都から電車で1時間、バスで30分の山のなかである。朝4時の空気は限りなく冷たい。だが、それほど苦痛に感じないのはなぜだろう。

 ふだんは寒さに負けてしまって、寒いと思いこんで身を縮ませてしまう。ここでは、意識は常に自分の内面に向かっている。自分が今なにをしているのか、なにを感じているのか、なにを考えているのか。それに集中している。玄関の扉を開けるときに自分の動作、外気が頬に触れるときの感触、足を外へ踏み出すときの筋肉の動き、こういうものに意識を向けていると、寒いという感じはあまりなくなってしまう。寒いというのは分かるのだが、それが苦痛ではないのだ。

 6日目、意識を動かしていくときに、左右対称で感じていくように言われた。肩なら両肩、腿なら両方の腿を同時に感じていくのだ。爪先まで行って折り返してきたら、こんどはまた部分部分で見ていく。それを交互に繰り返していく。

 体の左右を同時に感じるのはさらに難しい。やってみると、それまでは身体のある部分に自分の意識が向かうと、無意識のうちに自分の目もそこを見ていたのに気がついた(目を閉じているのに、きょろきょろしていたわけだ)。しかし、左右対称で感じるときには、その部分を見ることはできない。

 いや、見る方法があった。その部分から自分の位置を離すのだ。つまり遠くから見れば離れた場所も同時に見ることができる。

 これはあくまでもイメージなのだけど、ちょっと身を引くような感じ、自分がすーっと沈んでいくような感じがあるときに、左右を同時に感じることがわりと簡単にできた。おそらくそのときには、それまでよりも少し深い瞑想状態に入っていたのだろう。

 しかし、相変わらず足は痛い。最初の30分は我慢できる。でもそれが限界。あとは足のことしかかんがえられない。最初は鈍くしびれるような感じ。それがだんだん局所的な痛みに変わってくる。特に痛いのは膝だ。過去に経験したことがないような苦痛である。

問題は「反応」。

 ゴエンカさんは、痛みは過去のサンカーラが表面に出ているもので、平静に見つめていれば消えてなくなるという。サンカーラとは、漢字で書けば「行」。諸行無常の行。色受想行識の行である。「形成作用」などと訳されているが、ここではもっと簡単な言葉で説明される。

「反応=reaction」

 である。ぼくたちが外界(色)と接してそれを感じとる(受)。そこでいろいろな感覚が起こり(想)、それに対して感情を起こす(行)。寒かったら「イヤだなあ」と思い、暖かかったら「気持ちいいなあ」と思う。そのイヤだなとか気持ちいいという「反応」「反発」がサンカーラ。それが問題なのだとゴエンカさんは言う。寒かったら寒いと感じること自体は生物として当たり前のこと。それがなかったら死んでしまう。しかし寒いからイヤだと反発するときに、それが不純物となって無意識に蓄えられるのだという。

 ところでぼくの「反応」「反発」は、猛烈な足の痛みとともにもうひとつあった。おじさんである。そのころおじさんは後ろの壁にもたれて、足を投げ出して座っていた。からだがつらいのかもしれない。それはもちろん頭では分かるのだけど、こころは反発してしまう。

 その反発はおじさんの一挙手一投足へ向かう。彼が動くときの衣擦れの音、せきばらい、瞑想ホールでもときどき聞こえてくるいびき。部屋にかえって荷物をまさぐる音。歩く音。ご飯を食べるしぐさ。ぜんぶ気に入らなくなる。

 足の苦痛を緩和するためには、ぼくはなんでもした。ちょっとでも休み時間があれば柔軟体操をした。風呂に入ったらよくマッサージ。座布団も座りやすいように重ね、クッションを何段にも積み上げた。

 でも、おじさんに対してはなんにもできない。口で注意することはもちろん、メモを渡すことも、合図することも禁止されている。ほんとうにマネジャー(ボランティアでぼくらが瞑想しやすいように支えてくれているひと)に頼み込もうかとも思ったが、それもあんまりだと思ってやめた。

 表面的には感覚を探して瞑想しているように見えても、ぼくの内面はぐらぐら揺れていた。


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