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とらわれない、時間。

囚われない
捉われない
捕らわれない(当たり前かw)。

少し躾の厳しい家だったようにも思う。
大して出来のいい息子ではなかったけれど、人様に後ろ指を指されるようなことはなく育ってきた。

中くらいの成績で目立つことも特になく、中くらいの進学校に行き中堅の大学に入り、まぁまぁ知られた企業でそれなりの職位についた。


俳優や作家、アーティストなどに限らず友人たちでも突き抜けたことをしている人を傍目に羨ましくも思いながら人生の時間を消費してきた気がする。
長く生きていたいとも思わず、さりとて自分の人生をドラマチックに終わらせる気もない。

肩肘を張っていない、自然体などと良い表現で表してくれる人もいる。
そうかもしれないし、ただの努力不足の根性なしなのかもしれない。
でもそうやってここまで生きてきた。


ふと振り返る。
小さな頃、躾として細かなことや大きなことで窘められてたこと。
自然と身につき大きな道を外すことはないが何か見えない枠の中で生きている気がずっとしていた。

囚われる。
そういう言葉で表すのが良いのかもしれない。

学校。
勉強。
就職。
結婚。
出世。
別に躾けてくれた親を疎ましく思うこともない。
そつなく生きることは、間違いなくできた。

SNSに”素敵な”日常や、”おしゃれな”生活を載せることも気がつけば、それ自体が目的化し実生活はそのために行われているような感覚に陥ることもある。
これも囚われる、という表現にあっているのかもしれない。


そんな決まり事やルールをあえて横目に見ながら無視することが最近増えてきた。
本当は、従来はこうだったよな、と思いながら。
わかっていながらも、あえて無視をして違う選択肢を探す。

子供が巣立ち、長く続いた結婚生活を卒業し、親が老い。
そんなフェーズがやってきてようやく今までの囚われから身を切り離しつつある。

街を歩いていて。
右に曲がるべき道を、あえてそのまままっすぐ進む、そんなような感覚。
静かに、でも確信犯的に無視をする。
そんな生き方がちょうどいい時期がようやくきたようだ。

残り時間がそれほど多くないような気もするけれど。
心自由にあといくばくか、生きていければそれで良いのだと心から思う。


自分にとって良き人生を。

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