日陰
「人が生きて行くというのは毎週ゴミ出しをするようなものだ」
教師は黒板にそう言う風に書いた。えらい作家が何かの小説で使った文章らしい。数ある名文の中からこの文章を選んだのは正しい判断だと直樹は少し耳を傾け始めていた。五〇代も後半に見えるその女国語教師は、しかし、地震でも起きたかのように甲高い悲鳴みたいな声で授業を進めていた。Nくん、これはどう解釈しますか? Kくん、この文章から読み取れる作者の心情は?
教室の一番廊下側、前から数えても後ろから数えても三番目の席に、直樹は座っていた。本当は窓際の席が良かった、窓際の一番後ろなら最高だったが、廊下側のど真ん中という一番目立たない席に座れたのは直樹にとって幸運だった。授業はまだ始まったところで、最初の質問で授業にうんざりした直樹はかばんから読みかけの文庫本を取り出して栞の挟まっているページを探した。
それはお気に入りの栞で、軽い金属の素材でできていて、銀色に光っている、先には銀河鉄道の夜のジョバンニをイメージにした子供の姿が掘られている。それをうっかり落としてしまって、地面を探していると教師が直樹に目をつけた。
「黙って教科書だけ見てろよ」
直樹は誰にも聞こえないように口の中でボソリとそういうに言葉を転がした。
「大山さん、この文章、何を意図して書かれたんだと思いますか? 」大山というのは直樹の名字だ。時代の流れから、教師は生徒を名字+さん、で呼ぶことになっている。直樹はそれも気に食わない。
「意図は知りません。能力者じゃないので。だけど、まあ、性悪説みたいなものじゃないですか? 」
「先週漢文の授業でやりましたね、荀子」教師は少しムッとして答えた。
「それと一緒で、人間はもともと悪だから、そんな人間がのさばればのさばるほど捨てなくちゃいけないゴミが増えるって、ことだと思います」
言いすぎた、直樹は少し後悔した。
「授業にふさわしい言葉遣いをしましょう。そんな人間が暮らして行くと、程度でいいはずです。はい、ありがとう、じゃあお隣の加賀美さん」
直樹の左隣には加賀美凪(かがみなぎ)が座っていた。彼女はクラスの中であまり目立つ方ではないが、後ろに一つ結いにしている髪を解いた時のふうわりとしたシャンプーの香りとそれを結い直す時のうなじの美しさに直樹はいつも見とれていた。いつか、何読んでるの? と言って欲しくて、直樹は休み時間もいつもブックカバーをつけて文庫本を読んでいた。もちろん、そんなことは起こらない。凪は、決してアイドルではないが、クラスの密かな人気者で、自分から男に何かをするというタイプではないのだ。反対に直樹は、誰からも好かれるルックスを持っていたが、一人でいることの幸せを知るのが早すぎた。
「え、っと、わたしは、大山くん、あ、大山さんとは反対で、性善説のことを言っているんじゃないかと思います。人間は、もともと善いもの、としてあるから生きて行くうちにだんだん余計なものがくっついてきてしまう、だから時々それを捨てることで、素晴らしい人間として生きて行くことができるんじゃないかと」
「孟子ね、加賀美さん素晴らしいです。大山さんとは反対です、ってつけたところも良かったですね」
授業が進行する。時間が流れる。直樹は文庫本から時々目をあげて凪の方を伺う、時々目があって気まずい。凪は直樹と目が合うといつも笑う。
直樹の一つ後ろの席で僕は今、小説を書いている。